――あまりにも速すぎるデジタルテクノロジーの進化に、社会や法律、倫理が追いつかない現代。世界でさまざまなテクノロジーが生み出され、デジタルトランスフォーメーションが進行している。果たしてそこは、ハイテクの楽園か、それともディストピアなのか――。
今月のテクノロジー
『グレイル』グレイル公式HPより。2015年に米カリフォルニア州で創業した、バイオテクノロジーを手掛けるスタートアップ。採取した血液の血中に浮遊する断片から癌を検知する技術を開発。親会社は遺伝子分析機器の世界的最大手・イルミナ社で、20年に約80億ドルで同社が買収すると発表。ところが、21年4月に、米独禁当局(FTC)が反トラスト法を理由に「待った」をかけ、動向が注目されている。
シリコンバレーは、テクノロジーによって巨大企業と、お金持ちを大量に生みだしてきた場所である。
それがゆえに、このビッグウェーブに乗り遅れたら、自分は負け犬になってしまうという恐怖心「FOMO(Fear of Missing Out)」が、まるで風土病のように広がってしまう土壌にある。
シリコンバレーの風を受けて、最先端でありたい日本のスタートアップ界隈の人たちや、意識の高いビジネスパーソンなどは、だからいつも落ち着かない。音声SNSのクラブハウスが流行していると思えば、死にものぐるいで、ユーザー登録用の「招待状」を探し回るようなタイプだ。
さて、そんなFOMOの象徴ともされる事件が、2015年に米国で大スキャンダルに発展した、血液検査ベンチャーの「セラノス」による詐欺事件だろう。
「指先からとる1滴の血液で、あらゆる病気を調べることができる!」
スタンフォード大学を中退した女性起業家、エリザベス・ホームズが率いるこの会社は、指先をチクリとやるだけで、人間の生死にかかわる、30種類以上の病気を検査できる「マシン」の開発を続けた。
まるでスティーブ・ジョブズを連想させるように、黒いタートルネック姿でいつも登場しては、ミステリアスに微笑み、ピークで時価総額9000億円という、超ド級のスタートアップを演出し続けた。
ちなみに投資した人には、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官から、メディア王のルパート・マードックまで、錚々たる面子がそろっていたことでも、話題になった。
日本でも今年2月に、ようやくこの件を取材したノンフィクションの翻訳版が出版された。SNSでは「こんなショッキングな事件があったとは」という声があがってもいる。
しかしシリコンバレーでは、そんなセラノス事件を過去の教訓にしながらも、本当に血液から病気を発見するような、スタートアップが台頭しているのだ。
「私たちは、セラノスの陰で生きてきました。それが、一番つらいことだった」
そう取材で語ってくれたのは、シリコンバレーでいま大きな注目を集めている、グレイル(Grail)という医療ベンチャーの共同創業者、ジェシカ・オーウェンズさんだ。
この会社は、わずかな血液サンプルがあれば、50種類以上のがんを検知するというテクノロジーを開発しており、いよいよ先月にプロダクトとして世の中に出回り始めたところだ。
コンセプトは、詐欺スタートアップのセラノスに似ているように聞こえる。だから苦しい思いをしたというが、実際には10万人以上を集めた臨床試験を繰り返しては、医学的な証拠集めを地道に続けている会社だ。
では、なぜ少量の血液から、全世界で毎年1000万人以上を死に至らしめている、がんという病気を見つけることができるのか。
「もともとは、妊娠をした女性が、お腹の中にいる赤ちゃんに先天性の異常がないかを、調べるための検査がきっかけでした」(ジェシカ)
いま欧米などでは、赤ちゃんが先天的な異常をもっていないか判断するために、出生前診断を受ける人たちが増えている。例えばダウン症などを患っている可能性のある胎児は、そうした血液テストで見つかる。
そのテストをやっていたのが、遺伝子分析機器メーカーの世界最大手であるイルミナ社(本社:カリフォルニア)だった。
ところが出生前検査を受けた妊婦さんの中に、赤ちゃんには異常がないものの、おかしな遺伝子情報が含まれている血液サンプルがあることに気づいた。
これはなんだろう、と研究者たちはクビを傾げた。
調べると若い妊婦でありがら、その人たちはがんを発症していく。血液サンプルに含まれていたのは、血液の中にふわふわと浮いている、がん細胞の「DNAの断片」だったわけだ。
そこで血液から採取した遺伝子情報を大量のデータとして集めて、おかしいデータが含まれている血液と、正常なデータが含まれている血液を、人工知能によって比較できれば、がんは早期に見つけられるだろうと考えた。
この発見をもとに、イルミナ社から独立したスタートアップとして、グレイルは生み出された。
多くのがんは、実は超早期に発見すれば、治すことができる。こうした世界観に賛同して、大富豪のビル・ゲイツや、アマゾン創業者のジェフ・ベゾスも出資を通して、このグレイルをサポートしてきた人たちだ。
グレイルは20年、古巣であるイルミナ社が、8000億円で買収すると発表したところだ。セラノスによる「血液ベンチャー」の呪縛を、このグレイルは解放したという点でも、エポックな出来事だった。
「実は、グーグルやアマゾンも、秘密裏にウェットラボ(生物などを使う実験室)をもっていますよ。公表はされていませんが、GAFAなどは、いまバイオテクノロジーに本気で投資を続けています」
そう語るのは、バイオテクノロジーに精通しているベンチャーキャピタリストだ。
これまでシリコンバレーといえば、グーグルやアマゾン、フェイスブックといった、ソフトウェアを中心においた、デジタルな企業たちが主人公だった。
その後に誕生したウーバー(Uber)、エアービーアンドビー(Airbnb)などの企業も、いわゆるスマートフォンのアプリを使って利用する、ソフトウェア企業にほかならない。
ところが数年前から、シリコンバレーではデジタルの世界だけではなくて、生物を使ったバイオテクノロジーの世界に、どんどんとビジネスチャンスを広げようとしている。
もっとも顕著なのはグーグルで、傘下にあるベンチャー投資機関であるGV(旧:グーグルベンチャー)を通して、何十社ものバイオテクノロジー企業に投資をしている。
遺伝子検査キットを発売するスタートアップから、胃の中で薬剤を注入してくれる革新的なカプセルを開発するスタートアップ。またAIによる新薬開発を目指す起業家まで、ほぼ全領域をカバーしている。
そして、日本では孫正義社長が率いているソフトバンクグループも、実はビジョンファンドという巨大な投資ファンドを通じて、25社以上のバイオテクノロジー企業にカネを降り注いでいる。
そこには微生物たちを使って、プラスチックやフィルム、接着剤などの化学工業品などを置き換える物質を作ってしまうという、新しいアイディアと技術を持ったスタートアップがごろごろと転がっている。
もしかしたら、グーグルは未来に製薬会社になり、マイクロソフトとビルゲイツは新しい食品会社を作り、ソフトバンクは新時代の化学工業を作るのかも――。
やや飛躍がすぎたかもしれないが、いまテクノロジーの世界は、はっきりとバイオテクノロジーの世界と融合しつつある。血液によるがんの超早期発見は、その中の、ほんのひとつのアプリケーションに過ぎないのだ。
(文/後藤直義・NewsPicks)
後藤直義(ごとう・なおよし)
1981年生まれ。青山学院大学文学部卒。毎日新聞社、週刊ダイヤモンドを経て、2016年4月にソーシャル経済メディア『NewsPicks』に移籍し、企業報道チームを立ち上げる。グローバルにテクノロジー企業を取材し、著書に『アップル帝国の正体』(文藝春秋)など。