東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。
(絵/ジダオ)
30分ほどの待ち時間の間に、乃木神社の境内には雨が降り始めている。傘は持っていない。傘が要るような生活とは無縁だ。雨の日は家を出なければ良い。それで誰が文句を言うわけでもない。あの万事に口うるさかった母親が死んでみると、飯島俊輔の日常に介入する人間はひとりもいなくなっていた。
タクシーを降りた女が、由布子であることは、特徴的な歩き方でわかった。ただ、風貌は変わっている。あの華奢で心細げに見えた10代の頃の妹の面影は、こちらに向かって歩いてくる和服の女のシルエットからは完全に失われている。
「傘も持ってないわけ?」
と、いきなり決めつける口調も、高校生だった当時の妹と同一人物のものとは思えない。いったいどんな試練がどれほど襲いかかれば、ひとりの女の印象をここまで根本的に変えてしまうものなのだろう。
「悪いけど指輪は今ここには持ってきていない」
「わかってる。金庫が開かないんでしょ?」
驚いた。どうして知っているのだろうか。
「番号ならあたしが知ってる」
妹と15年ぶりに会うことになったのは、昨晩電話がかかってきたからだった。用件は、昨年の10月に亡くなった母親から、形見として受け取る約束になっている指輪についての話だった。
「明日にでも受け取りに行きたいんだけど」
と、由布子の言い方は単純だったが、俊輔にしてみれば、母親と彼女の間にそんな約束があったという話は聞いていない。なによりその指輪がどういうものでどこに保管されているのかすら知らない。が、俊輔は、由布子の唐突な要求を電話口で拒絶することはしなかった。ともあれ、会うだけ会って詳しい話を聞いてみないことには判断ができない。
俊輔と由布子は血縁上は実の兄妹だが、別々に育っている。俊輔が5歳、由布子が2歳だった時に、両親が離婚したからだ。離婚に際して、俊輔は母親とともに暮らすことを選び、その結果、父親が由布子を連れて家を出て行くことになった。弁護士がはいって、赤坂7丁目にある自宅とその敷地は母親に分与されることになった。父親が祖父から受け継いだ不動産会社が、当時、都内各所に広大な土地と家作を所有し、それとは別に個人資産として数億円単位の株や有価証券を持っていたことを思えば、俊輔と母親が受け取った赤坂の家は、共有財産のほんの一部に過ぎなかったのだが、当時の離婚は、おおむねそんなものだった。
次に由布子に会ったのは、15年後の父親の葬儀の時だった。つまり、別れて以来、俊輔は、父親と妹の顔を一度も見ていなかったことになる。
父親の死因は、庭の池に沈んでいるところを発見されるという形の事故死だった。溺死の理由は不明。誰一人理由を知る者はいない。
「人ひとりが溺れて死ねる池があったってことは、それなりの立派な庭がある家だということね」
と、訃報を知らせる電話を切った後に母親が笑いながら言った言葉を、俊輔は今でも覚えている。
俊輔は火葬場で父親が骨になるのを待つ2時間ほどの間、母親と妹が話し込んでいたことを覚えている。その時に指輪の話をしていたのかもしれない。たしかに、それはありそうな話ではある。
母親は、別れた夫にはほとんどまったく愛情も未練も見せなかった一方で、自分から引き離されることになった幼い娘に対しては、多分に芝居がかった感傷を抱いていた。実際、俊輔と2人で住んでいた赤坂の古い木造住宅には、由布子と同じ名前の大きな布製の人形が同居していた。その布製の赤ん坊の「ゆうちゃん」に、1日の出来事を話しかける母親の姿は、俊輔の目には薄気味の悪いドラマのように見えた。そうでなくても、彼女が人形の由布子に話しかける習慣は、自分から赤ん坊を奪った人間が、血も涙もない冷血漢であることを俊輔に教え込もうとする意図を含んだ行動に思えた。
母親が亡くなって以来、弁護士も含めて誰も知らない金庫のダイヤルの数字を、由布子が知らされていたことは、彼女が、母親から形見の指輪を約束されていたことをある程度証明する話ではある。
果たして、金庫は、彼女がダイヤルを回すとあっさり開いた。いずれ専門の業者に相談するかして、なんとか処理しなければならないと思っていた案件が、これでひとつ片付いたことになる。
金庫の中からは、フェルトの小匣に入ったダイヤモンドの指輪と、その鑑定書と一緒に、指輪を由布子に譲る旨を記した遺言書が出てきた。
形見として指定されている以外の資産については、離婚が成立した段階で、俊輔と由布子が互いの別居している親の資産について相続を放棄するということで既に合意ができている。
指輪をケースから出して眺めていた由布子は、さきほどからいぶかしげな表情を浮かべている。
「なにか問題があるのか?」
俊輔が尋ねる。
「……これがもし本当にダイヤモンドなんだとしたら、これはとんでもないものよね」
「どういうこと?」
「どう小さめに見積もっても10カラットはくだらないってこと」
「だとしたら、どんなふうにとんでもないんだ?」
「まあ、博物館クラスよね。普通に考えて」
「つまり相当な値打ちものなわけだな?」
「っていうか、あたしもさすがにこれが本物だと思うほど夢見がちな少女じゃないってこと」
「……それって、もしかすると、ママが夢見がちな少女みたいな人だったって意味?」
「それともうひとつ、あたしたちの父親があきれるほど雑な詐欺師だったということよね」
「……」
「だからね。これは、パパがママにプレゼントした結婚指輪なの。ということはつまり、このブツは、あたしたちのママがこんな子どもでもわかるようなデカいガラス玉のおもちゃを本物のダイヤモンドだと思い込むような世間知らずだったってことと、このたわけたまがいものを婚約者にあてがったあたしたちの父親が、およそ大胆不敵なヤマ師だったってことを物語っているわけよ。わかる?」
「まだニセモノと決まったわけじゃないだろ?」
「あきれた。あんたもママと一緒ね。この際だから教えておいてあげるけど、あなたの父親っていう人は、何十億っていう親譲りの資産を10年かそこいらですべて食いつぶした男なのよ。おかげであたしに残ったのは、冗談みたいなスポーツカーが1台だけ。あとはすっからかんよ。で、あてにしてた指輪がこれだからね。話にもなんにもなりゃしない」
「でも、一応鑑定してみるまでは……」
「もうひとつだけ大切なことを教えてあげる。パパは資産を食いつぶした男だけど、少なくともいろんなことにチャレンジして失敗した人間ではあったわけ。その点ではあなたよりは立派だった。わかる?あたしの言ってる意味」
「……オレの何がまずいんだ?」
「あんた、40歳過ぎになるまで、定職に就いたことないでしょ? 土地を売っぱらった代わりに手に入れたいくつかのマンションのアガリでこれまでブラブラしてきただけの人間よね」
「……」
「あんたみたいなのを、資産に食いつぶされた男って言うんだよ」
「……なにも、そんな言い方を……」
「そんな言い方もこんな言い方もないでしょ。要はあんたがそんな生き方をしてきたってことよ。遺産で転がり込んだ100坪ばかりのケチな土地にぶら下がってるだけの寄生虫じゃないの」
「……でも、投資だのなんだのでスッカラカンになって池で溺れて死ぬよりはマシなんじゃないか?」
「いいえ。あたしは、持ってる資産を投資さえできない男なんてガラス玉の指輪と一緒だと思ってる」
「……何が言いたいんだ?」
「だからさ。あたしの西麻布の店にとりあえず2000万円ほど投資してみなさいよ」
「えっ?」
話を聞いてしまったら投資の依頼を断れないことはわかっている。それでも、俊輔はなぜなのか、由布子の話の先行きを尋ねずにいられない。
「なんだよ、その西麻布の店っていうのは?」
小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気 ~わが炎上の日々』(技術評論社)、『友だちリクエストの返事が来ない午後』(太田出版)など。