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連載
友達リクエストの時代【第19回】

マッチョな男たちもフェミな女達も苦手なわけで……

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SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。

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『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』(紀伊國屋書店)

 この数日、個人的に忙しかった。

 仕事が立て込んでいたわけではない。

 といって、プライベートが忙しかったのでもない。なんというのか、自己防衛に忙殺されていたわけだ。

 発端は、私がツイッター上に放流したコメントだ。

「戦争ラブな男とはHしない女の会とか言ってないで従軍いやん婦って言えよ」

 というのがそれだ。

 私は、さる女性団体がこの5月から展開しはじめた一風変わった反戦運動(←はじめから世間を騒がすことが目的だったのかもしれない)に反発を覚えて、彼女たちを揶揄する言葉を投げかけたわけだ。

 反響は巨大だった。色々な意味で、私は苦境に立たされることになった。一番目立った反応は「女性差別だ。撤回せよ」というものだった。

 差別の有無はともかくとして、従軍慰安婦というセンシティブなタームを無神経にいじってみせたのは不適切な態度だった。おかげで、左右両方向の人々が食いついてきた。丸三日間ほど、私は、ほとんど十字架に架けられたも同然の状態で過ごさねばならなかった。

 詳しい顛末についてはほかのところに書いたので、ここでは触れない。結果だけを述べる。この「従軍いやん婦」炎上騒動を通じて、私は、「性差別主義者」ないしは「ミソジニー活動に励むコラムニスト」ぐらいな新しいレッテルを獲得することになった。

 仕方のない成り行きだったと思っている。

 実際、当たらずとも遠からずではあるからだ。

 私は、自分自身の自覚では、20世紀生まれの日本の男としては、かなり明確にフェミニズム寄りの人間だと思っている。日本の社会が女性の権益に対して鈍感である現状に対しては、これまでにも何度も反対の意向を表明しているし、なにより私はマッチョ(男性主義)という人々を心の底から嫌っている。

 ただ、そういう私にミソジニーが皆無なのかというと残念ながらそういうわけでもない。

 念のために「ミソジニー」という言葉について説明しておく。これは女性ないしは女性らしさに対する蔑視や偏見、憎しみを意味する概念で、「女性嫌悪」という訳語が当てられる。私がこの言葉を知ったのは比較的最近(多分2年程前)なのだが、啓発されるところを多く含んだ言葉だと思っている。

 啓発は啓発として、私は、この言葉を振り回す女性が苦手だ。それもまた、彼女たちから言わせれば「ミソジニー」ということになるのだろうし、実際、その通りなのかもしれない。私の中には、どうやら、典型的な女性らしさや、女性が特有に示すいくつかの特徴に対して、かなり明らかな苦手意識がある。

 ただ、私は自分のその「ミソジニー」について「うわっ、ミソジニー最悪!」「ミソジニーなんだから即座に捨て去りなさい」「ミソジニー男って最っ低」「自分のミソジニーを素直に認めて謝罪しなさい改善しなさい」と言われることに、素直になれないでいる。

 感覚としては、食べ物の好き嫌いを指摘された時の感じに似ているかもしれない。

「ニンジンが苦手なのは確かですが、これはどうしても直さねばならないないものなのですか?」

 と、問い返したい気持ちが湧いてくるのだ。

 私は、生来からのかなり手ひどい偏食家だ。食べられないものが山ほどある。なので、他人と食事する機会は、時に、憂鬱な時間になる。

「あら、ブロッコリは食べないの?」

「まあ、無理すれば食べられないこともないんですが、相性が良くないので」

「無理にでも食べられたほうが良いと思いますよ」

「……まあ、無理は体に毒ですから」

「ニンジンもよけるんですか?」

「あ。こいつは天敵なんで」

「食べたほうが良いと思いますよ。カロチンが……」

「はい。いずれ克服しようかと」

「……もしかして、インゲンもお嫌いなんですか?」

「食感というか、こいつの場合ニオイが鬼門でして」

「つまり緑黄色野菜は食べないということですか?」

「……色の派手な野菜は苦手なのですね。昔から」

 何度この種の会話を交わしたことだろうか。

 もちろん、グダグダ言わずに食べたほうが良いのはわかっている。そのほうがカラダに良いことは確かなのだし、それに、出されたものを残すのは料理をした人間に対して失礼でもある。わかっている。百回聞いた。

 でも、嫌いなものは嫌いなのだ。

 無理すれば、飲み込むことはできる。事実、どうしてもそうせねばならない時は、丸呑みにしている。

 ただ、それをやると、楽しいはずの食事が苦行になってしまう。だからなるべくなら、そういう拷問じみた食べ方は採用したくないのである。

 ミソジニー問題も、これに似たところがある。

 指摘されて気付いたとしても、矯正するのは簡単なことではないし、そもそも、どうしても直さなければならないのか、と思ってしまうのだ。

 もっとも世間には、ミソジニーを大々的に掲げて、堂々と女性差別をやらかして、しかもそれを男らしさの現れぐらいに思い込んでいる男がたくさんいる。フェミニズムの人たちの言う「男社会」の「マッチョ」な男たちの結束の、かなりの部分は、その有害迷惑なミソジニーを核としている。

 が、その種の暴力として発動される性差別や、無自覚な威圧として女性を傷つける女性嫌悪とは別に、文化的な偏向ないしは好悪の問題としての個人的なミソジニーというのだってあると私は言いたいのである。

 例えば、私は、長い間、女性ヴォーカルの高音がどうしても好きになれなかった。いまだに、あるタイプの女性歌手の高音を聞かされると、落ち着かない気持ちになる。なぜなのかはわからないが。

 これは、克服すべきミソジニーなのだろうか。

 もっと有害なものもある。これは、世にある男たちの中でかなり広範に共有されている感覚だと思うのだが、我々は、旅行やゴルフや麻雀のような結界に女性が入り込んでくる事態を、露骨にいやがる。

「えっ? どうしてオンナが来るんだよ」

「聞いてねえぞ」

「グリーンに嫁さんとか呼ぶなよ。めんどくせえ」

 ここで発動されているミソジニーは、なかなか深刻だ。単なる内に秘めた気分としての苦手意識ではなくて、現実に、明らかな排除圧力として、女性を遠ざけようとするものだからだ。

 思うに、これは男たちの仲間意識が、ある「幼さ」を含んでいることと関連がある。この連載で何回か指摘した通り、仲間と過ごす時、我々は、どうしても子どもっぽい人間になる。これは避けることができない。というよりも、我ら日本の大人の男たちの友情は、一時的にであれ、童心に帰ることによってしか回復・維持・展開できないものなのだ。

 だから、我々は、その「男の世界」に「妻」や「恋人」や「子どもたち」といった、結界を破る存在を招き入れることに強い抵抗感を抱く。なぜなら、妻子や恋人を招き入れて、結界が破れてしまったが最後、「仲間」であるはずの頼もしい男たちは、「夫」であったり「パパ」であったり「シュウイチさん」であったりする、およそ「仲間」としての魅力と迫力を欠いた、どうにもつまらない役割芝居の三文俳優に成り下がってしまうからだ。

 日本の男が、妻を同伴することを拒みがちであることの裏には、欧米のようなキリスト教を基盤とした社会と違って、我が国では、夫婦単位での社交が一般化していないということがあずかっている

 この問題(←日本の夫婦が社会的な単位として確立していないこと)は、稿を改めて論じなければならないだろう。ともあれ、戦後になって「家」という擬制が解体され、日本の男は、ただ威張っていれば良い人間ではなくなった。といって、「家」はなくなったものの、西欧的な「夫婦」を単位とした社会構造は、いまだに、まるで定着していない。

 結果、私ども21世紀の日本の男たちは、ある場合には孤立し、別のケースでは仲間とツルんで町を練り歩き、時に夫婦で不機嫌に過ごしたりなどしながら、結局のところ、確たる落ち着き先を見出し得ずにいるわけなのである。

 次回は、夫婦の話を書こう。

 その前に、今回の「ミソジニー」の話題について、暫定的な結論を述べておくことにする。日本の男のミソジニーは、多くの場合マッチョイズムの反映だが、そうでない場合、社会性そのものの欠落を補う特徴として獲得されたりする。わかりにくいだろうか?

 つまり、個人的な話をすれば、私は、マッチョな男たちと同様にフェミな女たちも苦手なわけで、いずれにせよ、ニンジンとニンゲンは嫌いだということだ。

 半端な結論になった。次回に続けたい。
 
小田嶋 隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。コラムニスト。近著に『ポエムに万歳!』(新潮社)、『我が心はICにあらず (小田嶋隆全集 第1巻)』(Kindle版/極楽寺書房)など。

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