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萱野稔人の"超"現代哲学講座 第3回

国家は絶対になくならない!? グローバル化する世界でも国家が存続する理由

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第3回テーマ
「グローバリゼーションの中の国家」

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[今月の副読本]
『社会学の根本概念』
マックス・ウェーバー/岩波文庫(72年)/441円
政治、経済、宗教などの分野で多くの社会学的研究を重ねてきた現代社会学の祖・ウェーバーによる"社会学上の概念"を定義づけた論文。研究者の間では未完とされているが、社会学上、貴重な文献である。


 私が権力というものについて考えるようになったのは、もともと、国家の問題を通じてでした。私が学生だった90年代は、まさに国家批判やナショナリズム批判がさかんな時代で、人文思想の世界にいる人たちは、それこそ「猫も杓子も国家批判」という状態でした。そんな中でよく言われていたのは、「このままグローバル化が進めば、国境の壁は低くなり、国家はそのうち消滅していくだろう」ということでした。グローバル化によってヒト・モノ・カネが国境を越えてどんどん移動するようになれば、国家はその動きにのまれてなくなってしまうだろう、というわけです。アソシエーション論や国家民営化論が出てきたのもこの頃です。こうした知的傾向は2000年代前半まで続きました。

 しかし、当時とは比べものにならないほどグローバル化が進展した現在からみると、こうした国家消滅論はまったく的を外していたことがわかります。グローバル化によって国家は消滅するどころか、相変わらず国際社会の主要なアクターであり続けているし、さらに新興国においては、グローバリゼーションのもとで経済成長を牽引する重要なファクターにさえなっています。

 こうした状況を前に、当時、あれほど「国家は消滅する」とうそぶいていた研究者や思想家たちはどこかに消えてしまいました。国家が消滅するまえに自分たちが消滅してしまったんですね。日本の人文思想界のダメなところです。すぐに付和雷同し、安易な発想に流され、その後の検証はまったくない。まあそれは置いておくとして、ここで考えたいのは、なぜ国家はなくならないのか、ということです。

 この問題を考えるために、まずは国家権力とはそもそもなんなのかということを押さえておきましょう。「国家権力」なんていうとものすごく仰々しく感じるかもしれませんが、その仕組みは非常にシンプルです。例えば私たちは法を犯して人を傷つけたりモノを奪ったりしたら逮捕されます。逮捕する、とは要するに人を強制的に拘束するということです。さらにその後、裁判で有罪になれば、刑務所に拘禁されたり、最悪の場合、死刑になってしまうかもしれません。法の背後にはこうした強制的で物理的な力、つまり暴力があります。

 私たちがなぜ国家の法や命令に(従いたくないときですら)従うのかといえば、最終的にはこうした暴力によって処罰されるのが嫌だからです。

 要するに、国家権力といっても、その基本的な仕組みは、物理的な強制力を背景に相手をこちらの意志に従わせるという、どこにでもあるものなんですよ。「痛い目に遭いたくなければ、おとなしく言うことを聞け」ということですね。これはかつて家長が子どもたちに対して持っていた権力(生殺与奪の権力)と同じであり、現在でもヤクザなどが用いようとする権力と同じです。国家とは、こうしたどこにでもある権力が制度化され、法によって根拠づけられ、社会のあらゆる領域へと覆いかぶさることで成立しました。だから、グローバル化によって国家がなくならないのも当然です。国家はどこにでもある権力の上に存在している以上、それが崩壊したり機能しなくなれば、そこには別の似たような権力が生まれるだけだからです。

国家が持つ権力源泉と至上の権力(=主権)

 こうした権力のあり方をもう少し理論的に考えると、どうなるでしょうか? ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、権力を次のように定義しています。「『権力』とは、或る社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない」(『社会学の根本概念』清水幾太郎訳)、と。
 
 少しわかりづらいかもしれません。「抵抗を排してまで」というのは「相手が嫌だと思っても」ということであり、「自己の意志を貫徹する」というのは「相手をこちらの言うことに従わせる」ということです。要するにここでウェーバーが言っているのは、相手が嫌だと思ってもこちらの言うことに従わせることを可能にするのが権力だ、ということです。

 ポイントは、ウェーバーが「この可能性が何に基づくかは問うところではない」と述べているところです。つまり、相手の抵抗を排してまで自己の意志を貫徹することができれば、それが何に基づいていようとすべて権力だ、ということです。例えば大学の教員である私は、遊びたいと思っている学生たちの抵抗を排してレポートを書かせることができますが、それも権力だということです。あるいは、上司が部下の希望に反して残業させるのも権力ですね。

 なぜ私が学生にレポートを書かせる権力を持っているのかといえば、それは私が学生たちの成績をつける権限を持っているからです。なぜ上司が部下に残業させることができるかといえば、その上司が指揮権や勤務評定権を持っているからです。

 そうした権限を「権力源泉」といいます。相手をこちらに従わせる可能性がよって立つもの、それが権力源泉です。ウェーバーが言うように、そうした権力源泉にはさまざまなものがありえます。

 ただし重要なのは、その権力源泉が何かということによって権力の性質も変わってくるということです。私の場合、権力源泉は「学生たちの成績をつける権限」なので、私の権力は自分の学生に対してのみ、それも成績評価にかかわること(授業への出席やレポートの提出など)しか命じることができません。権力源泉は権力を生み出してくれますが、同時にその範囲を制限してしまうんですね。

 これに対し、国家権力の権力源泉は暴力(物理的強制力)なので、その権力は物理的強制力によって逮捕されたり処罰されたりしたくない人すべてに対して、なおかつあらゆる領域の事柄について及ぶことができます。ここに国家権力の特徴があります。国家権力は暴力という権力源泉に基づくことによって、それ以外の権力におけるさまざまな制限を取っ払うことができるのであり、だからこそさまざまな権力の上位に君臨する「至上の権力(=主権)」となることもできるんですね。

 もちろん、だからといって、国家権力は人々にどんなことでも命じることができるわけではありません。「こんなことに従うぐらいなら、国家の暴力に対抗したほうがいい」と人々が思ってしまうようなことは、国家といえども命じることはできません。その意味で、人々の秩序意識にうまく根差さなければ、どんなに強大な暴力をたくわえた国家といえども権力を安定化することはできないし、そもそも強大な暴力を組織することすらできないでしょう。これは、物理的暴力という手段の重要性を説いたと一般に思われている、イタリアの政治思想家マキャヴェリが実は強調していたことでした。
 
 最後に一言。リーマン・ショックのあと、あれほど市場への国家の介入を批判していたアメリカの金融機関に莫大な公的資金が注入されました。矛盾していますよね。しかしこれは、市場は国家なしでは自分たちのリスクを抱えきれない、ということを示しています。国家は徴税によって、市場の論理とは異なる方法でお金を調達できる唯一の存在です。そしてなぜ国家は市場の論理とは異なる方法でお金を調達できるのかといえば、それは暴力を権力源泉としているからです。

 市場はそうした非市場的にお金を調達できる存在に支えられることで初めて存立している。資本主義は決して市場だけで完結しているのではありません。これもグローバル化によって国家がなくならない理由のひとつです。
 
かやの・ひとし
1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学准教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。

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