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「CYZO×PLANETS 月刊カルチャー時評」とは?

本誌連載陣でもある批評家・編集者の宇野常寛氏が主宰するインディーズ・カルチャーマガジン「PLANETS」とサイゾーがタッグを組み、宇野氏プロデュースのもと、雑誌業界で地位低下中のカルチャー批評の復権を図る連載企画。新進気鋭の書き手たちによる、ここでしかできないカルチャー時評をお届けします。見るべき作品も読むべき批評も、ここにある!

──低迷する映画業界よ、こんな時代だからこそ攻める映画を! 保守的になりがちな映画業界に喝を入れる映画評。映画を見る前にこれを読むべし!

今月の1本
『借りぐらしのアリエッティ』

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『借りぐらしのアリエッティ』公式HPより。

新城カズマ[小説家]×黒瀬陽平[美術家/批評家]×宇野常寛[批評家]

『崖の上のポニョ』以来2年ぶりとなる、スタジオジブリの長編劇場アニメ『借りぐらしのアリエッティ』。ジブリの若手アニメーター・米林宏昌が監督を務め、宮﨑駿は脚本のみ、という点も話題になった本作は、ジブリにとってターニングポイントとなる作品だった──。公開から2カ月、本作の意義と試みを考察する。

新城 『借りぐらしのアリエッティ』(以下『アリエッティ』)の素朴な感想というか驚いた点は、『アリエッティ』は『となりのトトロ』(以下『トトロ』)よりも尺が長いということです。88分の『トトロ』は今でもすべて思い出せるけれど、94分の『アリエッティ』のほうは、そこまでではない。私ができるギリギリの発言は、「『トトロ』はやっぱり名作だったんだ」と(笑)。

宇野 どこに基準を置くかで『アリエッティ』の評価はまったく違ってきます。そりゃあ、宮﨑作品、たとえば直前の『崖の上のポニョ』(以下『ポニョ』)に比べれば強度がまったく違う。けれど、スタジオジブリってこの10年近く、ずっと「宮﨑駿もいつか死ぬ」という前提のもとに若手を育てようとしてはきたと思うんですよね。それが宮﨑吾朗の『ゲド戦記』や森田宏幸の『猫の恩返し』なんだと思うんですが、どちらも漠然とした宮﨑駿の社会的なイメージを踏襲しようとして失敗している。これらと比べたとき、『アリエッティ』はプロジェクトとして少なくとも失敗していない。

黒瀬 僕は面白く観れました。演出の方法論が統一されていない、宮﨑駿のイデオロギーでパッケージングされていないながらも、ジブリ的モチーフ、表現は部分的に引き受けていて、それがモジュールの組み合わせのように見えた点が新しかった。

宇野 つまり、宮﨑アニメの全体性を確保していたイデオロギーではなくて、細部、具体的には各要素をバラバラにして取り入れることですね。

新城 『アリエッティ』は、「病弱なハウルがトトロの屋敷にやってくるとそこには小さなナウシカがいて」というふうに、すべて精密に当てはめられてしまう。その意味では私もモジュール性は感じました。

宇野 たとえば「世界名作劇場」的な、日本人目線のやや入ったファンタジー化された西洋や舞台となる古い屋敷のイメージ、こうした各要素を宮﨑駿イデオロギーからいったん切り離して、個別に咀嚼して飲みこむというゲームをやっている。

黒瀬 宮﨑駿がいつも仕掛けるプロットの破綻、矛盾がない、そしてそれを最大限に盛り上げる演出がない。希望的観測込みですが、個人的にはこれを、新しい世代によって宮﨑駿を相対化し、ジブリの中から新しいゲームが始まる予兆だととらえたい。

宇野 そのせいで、良くも悪くも口当たりがいい代わりにインパクトは弱い作品になったとは思います。しかしこれは過去の非宮﨑ジブリ作品の失敗を考えると、ほとんど初めて宮﨑駿へのアプローチ方法を発見したといえる。

黒瀬 監督の米林宏昌さんは、たとえば宮﨑吾朗監督と比べれば、宮﨑イズムの教育が徹底されていないからかもしれません。今回は脚本のみ担当ということで、どこまでが宮﨑さんの手によるのかはっきりしませんが、自分が好きな西洋のファンタジーと日本の民俗的で土俗的なものを無理やり直結させようとするのは、宮﨑さんだからできるんだということは『アリエッティ』からもうかがえます。

宇野 宮﨑さんをイデオロギッシュに叩く人がいますが、彼の「無意識の暴力性」のようなものが消えて内省的に賢くなった瞬間に彼が作り上げてきた世界は力を失うはずです。宮﨑作品では、肥大したエゴで本来つながらないはずのものをつなげ、そこがいびつな魅力を生んで、ひいてはその構造が絵の力を支えている。『ポニョ』のあのあざとい評論家ホイホイ的な各要素を、強烈なイデオロギー性で強引にパッケージングした凄みですよね。過去の若手ジブリ作品は、この構造を理解しないまま、中途半端にパッケージングされた表面的な宮﨑のイメージをある程度継承しようとして失敗している。対して『アリエッティ』が宮﨑作品や他のジブリ作品と違うのは、自覚的にか結果的にかわかりませんが、その大きな構造を後退させて各要素をモジュール的に継承しているからです。

黒瀬 その結果なのか、食べるシーンに象徴的な宮﨑演出における美学的なこだわり、今までジブリ作画と呼ばれていたものも総じて特徴が後退してプレーンな感じになっていましたね。

新城 走り回るシーンや飛ぶシーンも従来ほどではないですし。しかしそれならいっそ、短編映画複数本にバラしてみせたほうがわかりやすい。実際、興行成績を維持しつつ実験をするというのは、ほとんど不可能に近い。だとすれば、長編アニメ映画を2年に1本発表する興行体制そのものの限界と考えるべきではないんでしょうか。

宇野 ビジネスモデルも含めて、ジブリは体制自体を見直す時期に来ていると思うんですね。その試行錯誤のひとつとして宮﨑駿をなんらかの形で継承しようとするときに、一度バラさなければいけなかったということかと。それも短編映画では意味がなく、ジブリが長編映画を作る体力を維持したまま宮﨑駿から若手監督に引き継いでいくという使命を果たすためには『アリエッティ』は必要だったんでしょうね。

物語構造、エンディング……『アリエッティ』に残る"粗"

新城 私は初期宮﨑アニメのファンというかマニアとしては、観ている時から物語構造の破綻が気になってしまったんですね。『ルパン三世 カリオストロの城』をはじめ、宮﨑作品のいくつかに物語内矛盾があるとはマニアの間で話題になりますが、少なくとも見ている間は気にならない。しかし『魔女の宅急便』以降、どんどん構造が弱くなっている。『千と千尋の神隠し』や『ポニョ』に関しては、物語の矛盾を映像表現で押し切ってしまう手法に舵を切っている。『魔女宅』でもなんとか押し切れたのは、最後に原作にない飛行船が落ちるシーンがあったからですが、『アリエッティ』にはそれさえなくて、すごく引っかかってしまった。

 わかりやすい例は、家政婦のハルさんの立ち位置が曖昧で、なぜネズミ駆除屋を頼んで小人を捕まえようとしたのか、なぜかひどく不明瞭に映る。敵意とも好奇心とも取れるけれどそこがはっきりしていないと、翔君の英雄的な行動が引き立たない。宮﨑監督らしい二面性を描いて矛盾を引き出すならまだしも。多面性と矛盾と不明瞭は異なる概念ですからね。

宇野 『紅の豚』くらいからだと思うんですけど、宮﨑さんはむしろ物語の破綻自体を表現のフックとして使うようになっていますよね。『もののけ姫』とか『ポニョ』とか。対して、『アリエッティ』は宮﨑さんの物語面はある程度切ったわけなので、単純でサプリメント的になっている。病気の男の子が自分自身を取り戻すために自分より弱い女の子が存在するという回路になっていて、言ってみればこれは一部の「萌え」アニメがよく使うオーソドックスな手法です。歴代宮﨑作品の要素を解体して再編成するためには、物語が弱くないと、おそらく若い監督が御しきれなかったんだというのが僕の解釈です。プレーンで淡白な物語性に、ぼこぼこと宮﨑モジュールをソフトランディングさせていくという作り方しかなかった。モジュール一つひとつの精度にはバラつきがあるけれど、一方では非常に分析的で批評的だといえる。

黒瀬 ジブリの新しい世代は、宮﨑駿が築き上げてきたものをプラットフォームとして引き継ぎつつ、クリエイターの主体性を発揮するという道しかない。それこそディズニーのように。その点、『アリエッティ』で気になったのはエンディングで、わかりやすく宮﨑アニメのロマンティシズムに引っ張られていて、主体性を感じませんでした。宮﨑駿をプラットフォームにするということは、そういった宮﨑アニメの美学を大きく捨てることでもあるはずで、そこはもっと徹底してほしかった。

宇野 同感だね。『アリエッティ』が宮﨑さんの世界を継承しつつ新しさを打ち出したいなら、キャラクター造形も演出も、いわゆるジブリ的なものから「半歩ズラす」必要があったはず。なのに、たとえば問題を解決するために出てくる小人仲間のスピラーは典型的な宮﨑キャラだったり、そういう細かい部分は惜しい。

新城 確かにあの小人キャラは『未来少年コナン』のジムシィそのものでしたね。

「宮﨑駿のアニメ」から「スタジオジブリのアニメ」へ

宇野 今までのジブリは、一見そうは見えないんですが、宮﨑さんが老体に鞭打っていかに同時代から外部性を取り込んで自分の表現を洗練していくか、しかもその外部性を映画だけ観てもバレないようにどう隠蔽するかまでを含めたゲームだった。それが今回、若手スタッフがまねるのではなく向き合うべき外部、圧倒的な他者である宮﨑駿を、どう距離を取ってどう扱うかというゲームに切り替わった。こうした作り方のモデルはやはりピクサーです。「宮﨑駿のスタジオのアニメ」としてひとりの作家の圧倒的な天才で、その肥大したエゴから表現の強さを生む従来のやり方ではなく、「スタジオジブリのアニメ」として、集団制作とマーケティングのシステムから優れた作品を安定供給するピクサー的なやり方。この意識は明らかに何年も前からあって、積年のハードルを越えて初めて一定のプロダクトとして世に出されたのが『アリエッティ』だったんでしょうね。粗は多いけれど、やっと見通しが立ったように思えます。

新城 本日の私は「アニメ好きの一観客」という立場なので、ジブリの将来うんぬんよりも、どうしても物語の出来に目が行ってしまいます。劇中の「小人=泥棒」という意見も実は半分正しくて、彼らは借りたものを返していない。そこで翔君が「彼らは泥棒じゃない、借りぐらしだ」と擁護する構図にすれば、小人一族が黙って去る時に角砂糖が戻してあり、みたいな良い話にもできる。異種族間のファーストコンタクトと同時に恋心も暗示して。さらに翔君が心臓移植手術で誰かの心臓をもらわなければならない、「そんなことをしてまで生きる価値が僕にあるのか」みたいな話を重ねれば、借りたものをどう返すか、というテーマで統一できた。矛盾を残すなら、最後はいつもの力技で押し切ってほしかったです。

黒瀬 これは冗談抜きで言いますが、もっとゲーム的に、「今回でハルさんのステージはクリア!」というふうに割り切って描いたほうがよかったですね。ストーリーレベルで変に矛盾を残したり、葛藤を描いても宮﨑駿のコピーでしかない。とはいえ、ここまで議論してきたように『アリエッティ』が、宮﨑駿なきジブリの未来を考えさせるような作品になっていたことは評価できると思います。今後、さらにジブリの過去作品を完全にデータベース化して演出できるような人材が出てくることを望みます。もうひとつ付け加えれば、『アリエッティ』のように日常生活の中にいかにファンタジーを埋め込むか、といったテーマは現在のテレビアニメや映画も必死で模索してます。ジブリ作品だけ「別格」扱いするのではなく、同時代の作品との関係で眺められる、そういう地平を開いていきたいですね。

新城 このままだと、結局宮﨑イズムを批判的に継承できたのは細田守だけということになってしまいかねないですからね。

宇野 作家的な継承では庵野秀明か細田守かという中で、今回ジブリ本体が、いってみれば間接的な継承としてピクサー化を打ち出した。確かに『もののけ姫』や『ポニョ』はすごい作品だけど弱点も抱えていて、その弱点を克服すると美点も消えてしまう。『アリエッティ』の作り方なら、駄目なところだけ切って良いところを伸ばすことはできるはずです。ウェルメイドな作品を量産する体制だけが正解ではないし、加えて本作はウェルメイドとしてもまだまだ改善の余地の大きい作品だけど、初めてジブリの10年後の可能性を感じた映画だとはいえると思います。
(構成/新見 直)

黒瀬陽平(くろせ・ようへい)
1983年生まれ。美術家、カオス*ラウンジ代表。専門は美術批評、アニメ評論。今年4月に行われた展覧会「カオス*ラウンジ2010」にてキュレーターを務めた。

新城カズマ(しんじょう・かずま)
SF作家、ライトノベル作家。主な著作に『サマー/タイム/トラベラー』(早川書房)、『15×24(イチゴー・ニイヨン)』(集英社)、『さよなら、ジンジャー・エンジェル』(双葉社)など。柳川房彦名義で、ゲーム関連の企画や世界観構築も手がける。

『借りぐらしのアリエッティ』
監督/米林宏昌 企画・脚本/宮崎駿 制作/スタジオジブリ 配給/東宝 公開/7月17日
小人の少女・アリエッティは父母と3人、古い屋敷の床下で、砂糖やティッシュなどの生活用品をこっそり"借り"てひっそり暮らしていた。人間は彼らに害をなすから、見つかってはいけない。その屋敷に、人間の少年・翔が静養のためにやってきた。アリエッティは彼に姿を見られ、興味を持たれてしまう。小人を捕えたい家政婦のハルさんの存在もあり、アリエッティ一家の生活は揺らぎ出す。原作は、英児童文学『床下の小人たち』(メアリー・ノートン)。

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