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萱野稔人と巡る超・人間学【第9回】

萱野稔人と巡る【超・人間学】――「“殴り合い”はなぜ“人間的”なのか」(前編)

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――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。

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(写真/永峰拓也)

今月のゲスト
樫永真佐夫[国立民族博物館教授・総合研究大学院大学教授]

拳で人を殴ることはきわめて人間的な暴力である――『殴り合いの文化史』を上梓した人類学者・樫永真佐夫氏と、古代の拳闘からボクシングの成立までをたどりながら、“殴る”ことの意味を問う。

萱野 樫永さんは著書『殴り合いの文化史』(左右社)の中で、ボクシングを切り口にしながら、“殴る”“殴り合う”という行為を非常に多角的な視点から考察されています。荒々しい暴力である殴り合いがボクシングというスポーツへ進化していく過程を丁寧に論じながら、“殴る”という行為が実は人間の本質と深く結びついていることを明らかにしていく。その斬新な視点が本当に面白く、雑誌「Number」(文藝春秋社)の書評欄でも取り上げさせていただきました。

樫永 ありがとうございます。おかげさまで、通っているスポーツジムのトレーナーに「Number」に書評が載ったことを話したら「すごい!」とえらく感心されました。全国紙に書評が載ってもまったく興味なさそうだったのに(笑)。

萱野 樫永さんはご自身も実際にボクシングをやっていて、リングに上がった経験もあるそうですね。本書ではそんな樫永さんのボクシングへの愛が随所に感じられました。

樫永 僕はボクサーのピラミッドの中でいえば、本当に底辺の底辺に埋もれている名もないボクサーです。しかし、いや、だからこそ“殴り合い”について語れることがあるんじゃないか、大多数は敗者なんだから、と。それがあの本の根本にあります。

萱野 “殴り合い”を知的な探求のテーマにするという発想そのものに私はまず感心しました。そもそもそうした発想はどのように形づくられてきたのでしょうか?

樫永 子どもの頃から“殴る”のが好きだった――なんて、なかなか胸を張っては言えないですよね(笑)。昔は時代劇でもヒーローものでも、日本のフィクションでは主人公が悪役を“パンチ”で殴ることがほとんどありませんでした。子ども心にそこに、何か物足りなさを感じていました。世界チャンピオンだった具志堅用高の防衛戦を見て、「かっこいい!」と感激した子どもでしたから。相手がダウンしてもパンチの連打が止まらない、あのファイトにとても興奮しました。それが“殴る=かっこいい”というイメージがインプットされた原体験だったのでしょう。

萱野 おそらく私たちは具志堅が現役で試合しているのをオンタイムで見た最後の世代ですよね。当時の観客の熱狂は、それはもうすごかったですね。

“殴る”ことは“野蛮”の対極にある

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