東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。
(絵/ジダオ)
築地本願寺にほど近いビルの8階に、レコーディングスタジオがある。まだがん研究センターの病院が古い建物だった時代、花田歩夢は、そのスタジオを何度か訪れたことがある。用件は、シナリオの読み合わせだ。中野にある劇団で劇団員をやっていた飲み仲間の男が、二日酔いで動けないというので、代わりに顔を出したのだ。
「えーと、誰の知り合いだったかな?」
50歳ほどに見える痩せた男が、来意を尋ねた。
「はい。木島亮平の代役で参りました」
「代役? どういう意味?」
「よくわかりません。こちらでお世話になっている木島亮平が動けないというので」
男は苦り切っていた。
「動けないって、どういうことだ? 病気か何かで寝込んでるのか?」
正直に二日酔いと言って良いものかどうか迷ったが、結局、本当の事情を話すことにした。初対面の人間にウソを言うのは良くない。それに、亮平の酒癖は、周囲に隠せる段階を超えているはずだった。
「二日酔いです」
男は歩夢の顔をしばらく見つめて、やがて言った。
「君も二日酔いじゃないのか?」
「ええ。でも、動けないほどではないので」
「……事情はわかったから、今日のところはこのまま帰って、木島君に伝言を伝えてくれ」
「……はい。では、伝言をうかがいます」
「ふ・ざ・け・る・な、だ」
「わかりました。伝えておきます」
携帯電話がなかった時代ではあったが、生身の人間が口伝えで伝言を運ぶケースは、当時であっても、珍しい仕草だった。携帯電話についていえば、証券会社の人間やマスコミの記者連中が、会社支給のポケベルを持たされるようになったのが1980年代の半ばで、歩夢が築地のスタジオを訪れたのは、そのポケベルがようやく一般の新しがり屋の間で普及しはじめた90年のことだ。
エレベーターを待っていると、さきほどの痩せた男がドアを開けて言った。
「君、このあと時間はあるのか?」
「はい」
「名前は?」
「花田歩夢といいます」
「せっかく来たんだから、代役をやってもらうことにするよ。まあ、この際、字が読めるんなら猫だってかまわないわけだからね」
その夜は、徹夜になった。木島が言っていた代役というのは、翌年の春に発売予定のパソコン用ゲームにセリフを当てる仕事で、その日は、本番でこそなかったものの、シナリオの最終稿のチェックと、タイミング合わせを兼ねて、本番と同じメンバーで通しのセリフの読み合わせをする通し稽古の予定日にあたっていた。録音室の中には3人の男女が揃っていて、それぞれに台本を持っている。歩夢に渡された台本は、本来、亮平が読むべきところに青い色のマーカーで色がつけられている。
「花田君だっけ? 君は棒読みでかまわないから、とにかくマーカーのついてるセリフを読み上げてくれればいい。変に演技しなくていいから」
と、さきほどの男が言う。
「まだ、お名前をうかがってなかったですが」
「オレは中村左京。それから、一緒に読むメンバーは、伊東と竹野内と山下。覚えなくてもかまわないよ。代役なんだから」
「はい」
しかし、次のスタジオ録音の日も、亮平は立ち上がることができなかった。というよりも、この半月ほど、彼はマトモな社会生活ができなくなっている。
「なあ。こないだの読み合わせだかは、オレが代わりに棒読みしといたけど、今日のは、本番と一緒だから、お前が行かないと本格的にまずいぞ」
「ああ」
「監督も心配してたぞ」
「死ねって言ってなかったか?」
「ふざけるなとは言ってた」
「ふざけてないと言っといてくれ。オレは本気で酔っ払ってるんだって」
「オレはもうあのスタジオには行かないぞ」
「頼む。オレは動けない。こうしてるだけで吐き気がとまらないんだ。頼む」
その日、スタジオに現れた歩夢の顔を見て、中村左京は、事情を察知したようだった。
「木島君の酒は、あれはもうどうにもならないと思うんだが、君はどう見てる?」
「はい」
「はい、というのはどういう意味だ?」
「あいつはもうダメだと思います」
「そうか」
「申し訳ありません」
「君があやまることはない。さあ、仕事だ」
「私は、今日は、読めません。読み合わせじゃなくて、最終オーディションみたいだし」
「読めるよ。棒読みで良いんだ。変に感情がこもった声より、かえってユーザーの側が自分の感情を乗せやすいからね。大丈夫。君はできる」
結局、その日から3日がかりでメインのストーリーのセリフや、独白部分や、細かいシーンのセリフやら10種類ほどの叫び声やらを録音して、それが製品版の正規の録音ということになった。当時のゲーム業界のスケジュールは、そんな調子で動いていた。景気が良かったといえばそうもいえるが、業界が野放図に膨張する中で、あらゆる場面に素人が参入していたわけだ。
花田歩夢が、次に中村左京に会ったのは、その日から20年後のことだった。
「花田君だったね」
と声をかけてきた老紳士の声は、当時と変わらない中村監督の声だった。服装を見て、歩夢は、中村の行き先が、自分と同じ築地本願寺であることに思い至っていた。
「お葬式ですか?」
「息子の告別式だよ」
「え?」
「……木島亮平は私の一人息子だ。君にはずいぶん迷惑をかけた。感謝している」
言われてみれば、木島亮平と中村左京の風貌は、痩せた骨格といい、落ち窪んだ眉の下から見上げる視線といい、驚くほど良く似ている。あらためて2人の印象を並べてみると、親子としか思えない。自分はどうして今の今まで気づかずにいたのだろうか。
こうして、年老いた右京を見ていると、知り合ったばかりの頃の、快活で、無鉄砲で、饒舌で、人を笑わせることが大好きだった亮平の面影が、今となっては幻覚だったようにさえ思えてくる。
30歳を過ぎてからの彼は、絵に描いたようなアルコール依存症患者の、絵に描いたような末路を体現する、はた迷惑な男になり果てていた。この10年ほど、入退院を繰り返しているという噂を聞いてはいたが、歩夢は、その詳細を知らなかった。携帯電話の番号も知らない。というよりも、亮平は、携帯電話が普及するようになった頃には、既に一般の社会とつながりを持つ人間ではなくなっていた。
お互いが30歳になる頃までは、滞納している家賃を弁済したり、夜逃げ同然の引っ越しの後始末をしたり、なにかと面倒を見ていたのだが、この10年ほどは没交渉だった。というよりもありていにいえば、自分は亮平を見捨てたのだ。
「申し訳ありませんでした」
と、言いながら歩夢は自分の言葉に驚いている。
その言葉を引き取って、中村が言った。
「ははは。亮平のような並外れて無責任な男は、周りの人間に責任を感じさせるものらしいね」
「私も同じだよ。罪の意識を抱いている。でも、それももう終わりだ。私は、祝福しているよ。とにかく、あいつの苦しみは終わったわけだから」
どういう返事をして良いのかわからないので、
「そうですね」
と言った。
「その通りだよ」
と中村が言う。
「君の棒読みは相変わらず素晴らしい」
駅の階段を登りながら2人は、大いに笑った。
小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気 〜わが炎上の日々』(技術評論社)、『友だちリクエストの返事が来ない午後』(太田出版)など。