サイゾーpremium  > 特集2  > 【古関彰一】押し付け論が生まれた背景

――概論では、日本国憲法の成立をめぐる概要と、それを取り巻く議論を紹介した。その中でも今再び注目を集めている、現行憲法の成立過程にGHQが深く関わっていたことからくる「憲法押し付け論」を軸として、憲法学者として、制定過程を中心とした研究を長年行ってきた古関彰一氏に、その成り立ちを聞いた。

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『平和憲法の深層 』(ちくま新書)

──昨今は安全保障条約の改定を契機に、日本国憲法の存在が国会内外で取り沙汰される機会が著しく増えているように思います。今年の3月には安倍晋三首相が国会で「GHQの素人が8日間で作り上げた代物」と評したとして、非難を浴びました。4月に自民党が作成したマンガ冊子でも「英語で書かれた憲法をただ日本語に訳せというのか」といったシーンが登場するなど、現政権の改憲志向のベースには、いわゆる「押し付け論」が存在しているように思われます。そもそも、この「押し付け論」というのは、どこから誕生してきたものなのでしょうか?

古関 日本国憲法制定過程における「押し付け」という考え方が日本の政治家に衝撃的な印象を与えたのは、1954年のことです。自由民主党の前身である自由党時代の当時、日本国憲法を作る政府側の責任者であった松本烝治氏が自由党の憲法調査会に呼ばれました。46年2月13日、同月8日にGHQに提出した憲法改正要綱(松本試案)へのコメントが提出されることになり、コートニー・ホイットニー民政局長、チャールズ・L・ケーディス次長らが松本氏と吉田茂外相(当時)のもとを訪れます。そして「松本試案はまったくダメだ」と言われ、GHQ案を提示されるわけです。そこで「これを受け入れないと、天皇のPerson(人格)が保障できない」ということを言われた、と松本氏は調査会で証言しました。

──自分たちの案を突き返された上に、脅迫めいたことを言われた、と。

古関 東京裁判はまだ始まっておらず、天皇はどういった処遇を受けるのかと、誰もが思っていた時期でした。そのようにGHQが試案を出してきたのであれば、それはまさに押し付けではないか、と憲法調査会では捉えられた。当時の同会会長は岸信介氏でした。しかし、松本試案に関わったほかの人たちが松本氏と同様の証言を残しているかというと違います。吉田茂氏は、回想録『回想十年』(中公文庫)でそんなことは一切書いていない。憲法制定過程に携わった最大の功労者でありながら、あまり表に出てこない人物として、当時法制局の第一部長を務めていた佐藤達夫氏という方がいるのですが、彼も後々言っていない。

 それともうひとつの理由として挙げられることがあるのが、最終的な草案を突き詰めるのが、一種異様な状況下で行われたとされていることです。2月13日に手交されたGHQ案を閣議で受け入れることが決定した後、3月4日までに日本側の案を佐藤氏が中心となって取りまとめ、GHQ側に出頭し、ケーディス次長らと30時間に及ぶ審議を行っています。GHQ側は20人程度と多くのスタッフがいるのに対し、日本側は通訳を除けば松本と佐藤の2人だけで、しかも途中で松本は激高して帰ってしまい、佐藤氏はひとりになってしまう。そうした状況下で決められたことは、決してフェアとは言いがたいだろう、ということです。

──ですが、当時の政府はGHQ案をそのまま呑め、と言われたわけではないんですよね? 

古関 そうです。2月13日に松本氏・吉田氏にGHQ案を提示したとき、ホイットニー民政局長は「決してこれを丸写しにしろということではない」と述べています。ただし、マッカーサーの考えとして「国民主権の明示」「天皇は権限を持たない社交的君主にする」「戦争放棄」の3つは必ず入れてほしい、とする。それを受けて閣議で受け入れを決定し、「ただし最初にGHQの案があったということは表沙汰にしないようにしよう」と秘密にした。実際、巷間知られるように、憲法25条で言われる生存権はGHQ案にはなかった。これは当時の社会党の議員が努力して盛り込んだものです。あるいは、最近わかってきたこととして、GHQ案では9条に「平和」という言葉は入っていなかった。これも議会での議論を経て入れられたものです。

──議論をすれば人権に関する条文を作ることもできた当時の政府が、当初、明治憲法からさして変更のない松本試案を良しとしたのはなぜなのでしょうか? 

古関 当時の資料を読み込むと、実は松本試案は閣議や憲法問題調査委員会でも評判が良くはないのです。法制局の官僚たちは「大きな改正をしたほうがよい」という言い方で、もう少し民主的なものにしたほうが良いという考えを示しているし、東大の憲法学者であった宮沢俊義氏なども疑問を抱いています。ただし、このときに松本案を非常に支持したのが美濃部達吉氏なんです。当時70歳を超えていた、憲法学の大権威です。そうなると、ほかの人は表立って反対はしづらかったのだろう、と推測できます。

 そもそも、明治憲法から変わらずに天皇が統治権の総攬者であるとしていた松本試案よりも先に、天皇自身が現憲法に近いことを述べていると私は見ています。ひとつには、ポツダム宣言受諾直後の45年9月4日に出された詔勅で、「平和国家を確立して人類の文化に寄与せんことを冀」うと「平和国家」に言及している。戦争の放棄には言及していませんが、平和国家の樹立は日本の使命だと、明治憲法下にあって法的効力を持つ詔勅で述べているわけです。翌年1月1日のいわゆる「人間宣言」では、天皇と国民とは「信頼と敬愛」で結ばれていると述べており、これは明治憲法の「神聖にして侵すべから」ざる存在から一挙に「象徴」に近い関係を示している。

 あるいは、人権についても同様です。憲法より先に、個別の法ができている。例えば、男女平等や労働基本権もGHQ案で提示されたものだとされていますが、45年12月の段階で衆議院議員選挙権を改正して女性に参政権を与えているし、労働組合法も制定されている。でありながら、松本試案には、男女平等も社会権も書かれていなかった。法律が変わったとわかっていても、人間の頭の中はそう急には変われなかったということなのでしょう。激変する社会の中で明治憲法を否定する法律を認めていたのに、頭の中では明治憲法そのままだったのですね。

──想像を超える複雑な過程を経て、日本国憲法は誕生しているわけですね。

古関 日本国憲法の骨格・理念はGHQが作ったというのは、確かに私もその通りだと思います。しかし、よく考えてみれば、現在の我々の時代にとても重要になっている生存権のような人権は、日本の国会議員が率先して作ったものです。あるいは、「平和憲法」と呼ばれる9条の「平和」という部分も同様です。そうなると、そう単純に「押し付けだ」とは言えません。さらに、どこの国が何を作ったとか何が日本の固有のものだとか、そういう議論をする時代ではもうないでしょう。そうした意味では、私たちはあの憲法制定過程の中で国際化を経験してきたわけです。

 また、憲法に関しては資料が公開されるのに非常に時間がかかり、まだ実証できていないこともたくさんある。例えば、私が初めて本を出した(『新憲法の誕生』89年/中央公論社)頃は資料がなくて、9条の成立過程などは全然わからなかった。当時からジャーナリストなどは9条と1条はバーゲニング(取引)であると言っていましたが、実証はできなかった。ですが、昭和天皇が89年に亡くなられた後、さまざまな資料が側近たちの中から出てきました。それから、憲法制定時の議会の議事録が95年に公表された。こうした出来事があって、戦後70年の間にも憲法に対する認識はあらためられてきました。歴史はやっぱり正確にしておかないといけない。特に研究者には、そういう責任があると思います。

(構成/松井哲朗)

古関彰一(こせき・しょういち)
1943年、東京都生まれ。早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了。和光大学教授、獨協大学法学部教授を経て、現・同大名誉教授。日本国憲法制定過程に関する研究を中心に、憲法の軌跡を紐解いてきた。主著に『日本国憲法の誕生』『「平和国家」日本の再検討』(岩波現代文庫)、近著に『平和憲法の深層』(ちくま新書)。

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