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サイゾー×プラネッツ『月刊カルチャー時評』VOL.22

『かぐや姫の物語』――高畑勲が老境で見せた孤高の凄味

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批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。

宇野常寛[批評家]×井上伸一郎[株式会社KADOKAWA代表取締役専務]

 昨夏公開の『風立ちぬ』と同時上映予定だった高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』が11月23日にようやく公開された。制作費50億円、制作期間8年の果てに生み出された本作には、高畑監督の神髄が詰め込まれている──。

姫の疾走シーンは『風立ちぬ』公開時に上映された予告編でも使われ、早くも話題を呼んだ。全編に渡る映像美は圧巻。(画像/『かぐや姫の物語 ビジュアルガイド』1300円+税/KADOKAWAより発売中)

宇野 実は、そもそも僕が高畑勲作品に興味を持ったきっかけは、高校の頃、古本屋で偶然手に取った「アニメック」【1】で井上さんが書いた『赤毛のアン』【2】特集なんですよ。なので高畑勲について語る時は、ぜひ井上さんを呼びたいと思っていました。今日だけアニメライターに戻って、お話を聞かせていただきたいと思います。

井上 緊張しますね(笑)。私が編集アルバイトで最初に担当した特集です。

『かぐや姫の物語』の感想を話すと、すでにいろいろな人が言ってることですが、竹取物語の話から基本的に全く変えてなかったのがびっくりしました。キャッチコピーが「姫の犯した罪と罰。」でしょう。これまでの解釈にないものをいっぱい入れてくるのかと思ったら、5人の貴公子に課題を与える有名なエピソードも含め、そのまま素直にやってきた。だけど物語的にはちっとも古びた感じがしなかったのが、さらに驚きました。

宇野 僕は実は、高畑さんの映画作品はリアルタイムで観た中では、そんなに好きなのがないんです。毎回出落ち感がある(笑)。もちろん、『火垂るの墓』【3】なんかは長崎で小学生の頃に反戦教育を受けた自分から見ても、どんな反戦ビデオの生映像よりも恐ろしさを訴える力があった。「アニメだからこそ描くことができる現実がある」という確信が高畑演出の本質だと僕はずっと思っています。

 でも、『おもひでぽろぽろ』【4】『ホーホケキョ となりの山田くん』【5】も、作画演出的には最先端なことはよくわかるけど、表現力が高すぎるせいで演出コンセプトがすぐわかってしまい、「ああ、これがやりたかったのね」と思ってしまう。話も単に戦後市民派のテンプレートみたいな内容だし。本当は細かいところですごいことをやっているのだろうけど、なかなか伝わらないのがもったいない。

 でも、今回の『かぐや姫の物語』は、観てしまうとその圧倒的なすごさが細部まで伝わると思いました。井上さんがおっしゃるように完全に知ってる「竹取物語」なのに、絵だけでも飽きないし2時間ストーリーとして追える。ただ、最後の場面で、姫がなぜここに来たかを自分でセリフで言ってしまったのは、若干もったいなかったですね。世界の美しさとは何かという話は、作画演出力で十分に表現できているはずなんです。

井上 この最後のシーンについて宇野さんに質問してみたいのですが、天界の、雲の上から来る人たちの恐ろしさというのは、見方によってはユートピアとはディストピアでもあり、心というか感受性をなくしたほうが人間は幸せになれると受け取れるでしょう。でも、猥雑で罪はいっぱいあるけれど、現世のほうが魅力的だよという話を高畑さんは作られたのかなと、私は大雑把な解釈をしたんですが。

宇野 あのシーンで面白いのは、姫をあれだけ全力で描き滔々と演説もしてるのに、もしかしたら捨丸も含め誰一人として彼女の理解者がいないことだと思います。「何でそんなに地球にこだわるの?」と。

井上 その孤独さはありますね。かつて地上に落ちた天人【6】だけがわずかにシンクロできるような感じなんでしょう。

宇野 高畑さんには、表面には出さないけど抱えている「無常観」があると思うんです。例えば、宮崎駿さんのそういう毒の部分は言ってみればムスカ【7】で、彼には宮崎さんが抱える大衆憎悪や残酷性が出ている。高畑さんの場合、人間の心の機微や人の目から見た世界の美しさとかを丁寧に追うんだけど、その一方でものすごく突き放してる。今回の姫と捨丸のエピソードも、再会時に彼に家族がいるのは明らかに意図的ですよね。成就の可能性を完璧に潰した上で、あの飛行のシーンを描いている。

井上 人間に対する見方が厳しい人ですよね。『火垂るの墓』でも、清太が死ぬのは結局、誰にも頼らなかったから。普通のアニメ作家は彼の行為を英雄的に称えるだろうけれど、それは間違いだ、罪だよと示す。そういう冷徹な現実の突きつけ方を常にしてくるのが高畑作品の怖さです。『平成狸合戦ぽんぽこ』【8】の狸も、ギャグ的に描かれてるのに死んじゃうしね。

宇野 あのキャラクターであんなに普通に死ぬんだ、と思いますね。

井上 あと絵の話をすると、鉛筆の描線をうまく取り込んで、なおかつ背景と一体化したことですね。こんな面倒なことは高畑さんしかやらない(笑)。絵的なチャレンジは、実は宮崎さんより高畑さんのほうがたくさんしているんです。宮崎さんはやっぱり自分の絵が動くのが好きなんですね。自分の絵の最高の動きを常に求めている人で、だから皆安心して観に行ける。

『ぽんぽこ』は、ものすごくリアルな狸、マンガ・アニメ的ないわゆる半擬人化されたキャラクターの狸、さらにマンガっぽくなった谷岡ヤスジみたいな狸、と描き方が一瞬で変わっていくけど、それがちゃんと同じキャラに見える。ああいうことをわざわざやるのは、絵描き出身じゃない故のアニメに対する突き詰め方なんでしょうね。

宇野 その「絵が違うのに同じキャラクターに見える」というのは、高畑さんを考える上で大きい問題だと思うんですよ。

 今回の「かぐや姫」でも皆が最初に驚くのは、タケノコがいつの間にか同じカットの中で成長してしまっている場面でしょう。僕はあれを観たときに、『赤毛のアン』の第37章「15歳の春」を思い出した。この回でアンの等身が変わるのだけど、観ている人にはまるでいつの間にか成長していたかのように見える演出の力があって、マリラと一緒に泣きたくなるんです。

 それは、大塚英志の言う「アトムの命題」問題を逆手にとったんだと思う。つまり、絵の記号性で同一性を担保しているマンガやアニメのキャラクターの身体は成長しないんだという観る側の無意識に訴えかけて、成長に伴う喪失感を描いた。そこには最初に言った、高畑演出の本質が現れていると思います。そういう点で、今作は高畑さんの自己解説的な部分があって、最後の集大成的な作品のような気がしてしまうんですよね。

井上 いや、それは違うと思いますよ。過去のインタビュー等を読んでの推測ですが、高畑さんが最後に作りたいのは多分『平家物語』なんです。今回の作品も含め、それに向けた習作なんじゃないかな。

宇野 なるほど、それは観てみたいですね。高畑さんは間違いなく永遠なんてないと思っている、まさに「無常観」の人ですから。

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