[今回のゲスト]
齊藤泰嘉
美術評論家連盟会長
パーソナリティ心理学を活かして組織と人材の成長を支援するコンサル企業「HRD株式会社」代表取締役・韮原祐介氏が、 “人を育てる立場”にある、各界のリーダーやトップをゲストに迎え、人材育成と自己成長をテーマに語り合う当連載。今回は名門・九重部屋の第十四代九重親方こと九重龍二氏と「精神論と観察眼」について本音で語り合う――。
東京都美術館佐藤慶太郎記念アートラウンジにて。(同館の許可を得て撮影)(写真/増永彩子)
韮原祐介(以下、韮原) 今回のゲストの齊藤泰嘉さんは、美術評論家連盟の会長であり、筑波大学の名誉教授でもあります。これまで学芸員や批評家を育て、アーティストやギャラリストとして活躍する教え子もおられます。齊藤さんご自身も、東京都美術館(以下、都美館)や東京都現代美術館(以下、都現美)で学芸員を務め、日本の現代アートの黎明期をよくご存じです。そうした経験を踏まえ、当時の話から、学芸員や批評家を育てるとはどういうことか、そして今後のアート界・美術館業界がどのように人を育て、社会と関わっていくべきなのかについて話していきたいと思います。
齊藤泰嘉(以下、齊藤) 私は山口県の生まれ。父は多摩美術大学出身で、日本画に精進し、院展などへ出品していた齊藤惇です。私が幼い頃、父は「山口にいては画家として遅れてしまう」と再び東京を目指し、家族で千葉県に移りました。小学生の頃は、父に連れられて上野の都美館に通い、横山大観先生などの名前を教わったものです。
韮原 なぜ学芸員を志したのでしょうか?
齊藤 父の影響もありますが、大学で博物館学を学び、そこで博物館法を勉強したことが大きかったですね。博物館法は昭和26年(1951)12月1日に公布されています。その日が私の誕生日だったのです。
韮原 運命だったのかもしれないですね。
齊藤 こうして、慶應義塾大学で学芸員資格を取得。北海道立近代美術館に就職、その後、都美館へ移りました。そこで、収蔵庫を整理していたとき、一体の銅像を見つけました。それが佐藤慶太郎の銅像でした。彼が東京府に100万円(現在の約40億円)を寄付し、大正15(1926)年に都美館が建てられました。その後、都の予算によって建て替えられ、1975年の新館移行後、その存在は次第に忘れられていきます。でも、ここから私の佐藤慶太郎研究が始まりました。
韮原 佐藤慶太郎は福岡県若松出身の石炭商。美術とは無縁の実業家が、なぜ東京に美術の殿堂を築いたのでしょうか?