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小田嶋隆の「東京23話」【7】

【小田嶋隆】板橋区――外部遮断装置を装着した男子高校生と親父、そしてその妹

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東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

【小田嶋隆】板橋区――外部遮断装置を装着した男子高校生と親父、そしてその妹の画像1
(絵/ジダオ)

 その朝、都営三田線は人身事故の影響で午前中いっぱい不通だった。高島平駅の掲示で、巣鴨駅での事故の情報を知った日向大輝は、来た道を引き返して東武東上線の東武練馬駅に向かった。普通に歩けば30分はかかる道のりだが、自分の足なら15分でなんとかなる。それでも、間に合うかどうかは微妙だが、とにかく、この駅で来ない電車を待っているわけにはいかない。それは敗北者の選択だ。

 5分ほど走って、息苦しさを感じて、マスクを外した。このほうが明らかに走りやすい。そもそも、自分はどうしていつもマスクをしているのだろうか。いや、答えはわかっている。つまり、オレは、変装をしているのだ。オレは、表情を見破られたくないと思っている。話しかけられないように身構えている。どこか様子の違った人間として振る舞うことで、学校のクラスの中にある意味のわからないカーストから距離を置こうとしているのだ。そして、その試みは、今のところ成功している。大輝は、極端に無口なガリ勉として、クラスの空気から浮いている。おそらく、生徒の大半は、彼が教室に座っていることにさえ気づいていない。授業中に指名されて発言する機会や、ごく事務的な連絡事項に回答する時以外、日向大輝は、決して口を開かない。マスクは、言わば、外界遮断装置だった。

 友だちがいないわけではない。地元に帰れば仲間がいる。仲間というのは、少年野球の時代のチームメートを中心としたグループだ。野球は、今となっては、隔週土曜日の練習日に集まるための弁解みたいなものになっている。それでも彼らのチームは板橋区の軟式野球リーグの大会にエントリーして、春と秋にはいくつかの公式戦を戦う。

 大輝本人は、特別に野球が好きなわけではない。が、自由に口をきける相手は、チームの中にしかいない。ということは結局、大輝にとっては、チームの中にいる時と、ひとりで勉強をしている時だけが、自分が自分らしくいられる時間だった。

 とはいえ、文京区にある都立の進学校で過ごしている時の無口なガリ勉である自分と、草野球チームの高校中退組を含む仲間に囲まれている時の皮肉な毒舌家としての自分のうちのどちらが、本当の自分らしい自分であるのかは、大輝本人にも、はっきりとはわからない。いずれにせよ、この二重生活は、ほかに選択の余地の無い必然だったわけで、してみると、周囲の空気に過剰適応するというカメレオンに似た持ち前が、険悪な家庭に育った子どもである彼に許された唯一の処世だということなのだろう。

 家には父親がいる。

 母親は4年前、大輝が中学2年生の時に、小学生だった妹を連れて家を出た。現在、どこにいるのかはわからない。どうして出ていったのかも知らされていない。父親はそういうことを一切説明しない。彼は、どんな場合にでも、一方的に自分の仕事の愚痴を言い募るばかりで、大輝の話には耳を傾けない。仕事の話は、大輝には、ほぼ意味不明なのだが、父親は頓着しない。まるで壁に向かって話しているみたいに、表情を変えずにしゃべり続ける。

 その、一方的な言葉が次々と繰り出されて来る父親の口元を眺めながら、大輝は、彼が何らかの心の病を患っているのではないかという思いを捨てることができない。いくらなんでも、こんなにロボットみたいな調子でしゃべる人間がマトモであるはずがないではないか。

 でも、と、しばらくして、大輝は考え直す。親父(少し前から、大輝は、父親を心の中でこう呼ぶようになっている)がオレに対してこういう口のきき方しかしないのは、オレが学校でマスクをしているのと同じことなのかもしれない。つまり、父親もまた、何かを遮断する必要をかかえているのだ。

 母親が出ていった直接の理由は知らない。

 が、両親の不和の原因はおおむね理解している。彼の記憶の中では、父親と母親が親密だったことは、ただの一度も無い。2人は、大輝がものごころついた頃には、既に言葉をかわさなくなっていた。たまに必要に駆られてやりとりされる会話も、芝居の台本を読み上げるみたいな調子の白々しさだった。後年、別れる前のしばらくの間、夫婦は、相手に向かって伝える内容を、大樹に向かって語る形式でコミュニケーションを取るようになっていた。別の言い方をするなら、彼らは、互いに直接口をきかないで済ますための方便として、大輝を利用していた。

「大ちゃん。お母さんは明日からしばらく京都だから自分で起きるようにしてね。朝ごはんはお父さんの分もあなたがコンビニで調達できるわね」

 そんな生活が3年ほど続いたある日、母親は、眠っている千鶴子を抱きかかえて家を出ていった。

 居間でテレビを見ていた大輝が、気配に気づいて振り返った時、母親はまっすぐに彼の顔を見て、しかし、何も言わなかった。その沈黙の意味を、大輝は、母親から父親に伝えるべき言葉がひとっかけらも存在しないという意味に解釈した。自分への言葉がないことについては、特に不自然には思わなかった。彼の側からも、母親に伝えなければならない言葉が見つからなかったからだ。

 最後の数年間、家族の間には、感情が通わなくなっていた。もともとは父親と母親の間に生じた相互不信が、大樹にも向けられるようになったからだ。誰かを憎んでいる人間は、いずれ、ほかの対象を憎むようになる。長い時間を経てひとりの人間の中で成長した憎しみは、いつしか、特定の相手に向けた感情であることをやめて、最終的には、自分の外にあるすべての世界への呪詛に姿を変えるものなのだ。

 ただ、そうした日々の中でも、幼い妹の千鶴子だけは、家族の愛情の最後のよりどころになっていた。もっとも、その愛情とて、多分に芝居がかったものではあったわけで、家族の全員が代わる代わるに自分を猫可愛がりにする小芝居は、彼女自身にとっては、重荷だったかもしれない。

 ともあれ、その妹は母親が拉致して行った。

 後に残ったのは聞く耳を持たない2人の男で、そのうちのひとりである自分は、今、東武練馬の駅に向かう坂道を駆け上がっている。

 千鶴子は、大輝の高校から地下鉄で一駅先にある文京区のK町小学校という学校に通っている。つい半月ほど前、千鶴子と仲の良かった女の子の母親が、エレベーターの中で教えてくれた。

「大ちゃん。千鶴子ちゃんに会いたいでしょ?」

 と彼女は囁いた。

 確かに、母親に会いたいと思ったことはないが、妹には、会って何かを伝える責任のようなものを感じている。何を伝えるのかは、まだわからない。が、いずれ、千鶴子が卒業する前に、小学校に出向いてみなければならないと、大輝は考えている。 

 学校には、東武練馬から池袋・巣鴨を経由した結果、30分ほどの遅刻で到着した。

 遅刻の生徒が半数を超えそうな状況に対応して、学校側は、1時間目を休講にしていた。

 三々五々やってくる遅刻者に向けて、先に着いた生徒たちが、巣鴨駅での事故の様子を話している。

「飛び込んだのは小学生らしいぜ」

「まさか」

「そのまさかなんだ。小学校6年生の女の子だとさ」

「どうして小学生が地下鉄なんかに飛び込んで死なないといけないんだ?」

「理由なんか知るかよ。いまどきは、お子さんたちも色々と大変なんだよ」

「だよな。満員電車で区域外の小学校に通うとか、朝っぱらからたまったもんじゃないよな」

「あれは可哀想だな」

「K町小学校の生徒らしいぞ」

「すぐそこじゃないか」

 ここで、日向大輝がいきなり口を挟む。

「名前はわかりますか?」

「……ん? なに?」

「……知らないけど」

「……どうかしたか?」

「もしかして千鶴子って言いませんでしたか?」

「千鶴子かどうかは知らないけど、血だらけだったらしいぞ」

「ははははは」

「おい、何する。落ち着け日向。手を離せよ。ほらだから殴るなよ。おい。血が出てるじゃないか」

 この日以来、大輝はマスクを装着せずに登校するようになった。

 が、彼に話しかける生徒は誰もいない。

小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

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