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磯部涼の「川崎」【第十四回】

【磯部涼/川崎】川崎の子どもを導くトップ・ダンサーの夢

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日本有数の工業都市・川崎はさまざまな顔を持っている。ギラつく繁華街、多文化コミュニティ、ラップ・シーン――。俊鋭の音楽ライター・磯部涼が、その地の知られざる風景をレポートし、ひいては現代ニッポンのダークサイドとその中の光を描出するルポルタージュ。

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ダンス・チームのKING OF SWAGを率いるDee(右)と、その弟であるYusei(左)。

 ラップ・ミュージックはダンス・ミュージックでもある。リリックが過酷な現実を描き出す一方、ライムとビートはその中に漲る生命力があることを教えてくれる。

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「KONNICHIWA」では、STUDIO S.W.A.G.の生徒たちもパフォーマンス。

「オレたちがはやらせたよ、この街にヒップホップを!」。2016年12月、同文化の新たなメッカとして知られるようになった川崎区を代表するラップ・グループ、BAD HOPは、躍進した1年を締めくくるべく川崎駅前のライヴハウス〈クラブチッタ〉でワンマン・ライヴを行ったが、クライマックスにそう叫んだ2週間後の年の瀬、実はもう一度、同じステージに上がったのだった。そして、その日、フロアを埋めていた観客は、前回よりもさらに若い子どもたちが目についた。首におもちゃのゴールド・チェーンをかけた少年、髪にピンクとパープルのリボンを編み込んだ少女。思い思いにめかした彼らが見つめる先で、リーダーのT-PABLOWがゲストを呼び込んだ。黄色いパーカーに格子柄のパンツで揃えた10人ほどの子どもたちが飛び出し、歓声を浴びながら可愛らしくも力強いダンスを披露する。ヒップホップはラップやダンスを含む総合的なものだ。川崎に同文化が根づき始めているのだとしたら、そこでは、BAD HOPだけでなく、このイベントを主催していたダンス・スタジオもまた重要な役割を果たしているだろう。

イケイケの母親とダンスのおかげで不良の道に深入りしなかった

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会場のフロアでダンス・バトルも行われた「KONNICHIWA」。観客は親子連れが多かった。

 平日の午後、ネオンではなく冬の柔らかい日差しに照らされた、まだ静かな仲見世通りを抜けると、第一京浜を挟んだ向いのビルの窓に描かれた〈STUDIO S.W.A.G.〉という文字が目に留まった。階段を上がれば、16時からのクラス「超入門HIP HOP」を受講する子どもたちがすでに集まりつつある。10歳ぐらいの少年が向かい合って宿題になっていたステップを確認し合う横で、まだ幼い少女がスタッフの膝に座って甘えているが、彼女もセットアップを着て準備は万端だ。そのとき、ドアが開いて、緑色の髪の男が入ってきた。「おはようございます!」。いかにもいかつそうな男は、子どもたちの挨拶に微笑んだ。代表のDeeだ。

〈STUDIO S.W.A.G.〉は、前身のスタジオから合わせるとすでに12年もの間、川崎でダンスを教え続けている。ただし、87年にこの街で生まれたDeeが小学校1年生で踊り始めたのは、母・由香に半ば強制されてのことだった。「お母さんは怖かったですからね」。Deeは、事務室の壁に貼られた彼女のたくさんの写真を見ながら言う。「オレ、リズム感がまったくなかったんですよ。川崎って祭りが多いんですけど、川崎踊り(ご当地盆踊り)とか全然できなくて」。そんな少年が通わされる羽目になったのは、伯母が藤沢市辻堂で経営するスタジオ〈HANA〉だ。「当時、ダンスは女の子がやるものだっていうイメージがありましたし、実際、スタジオでも男はひとりで、嫌でしたね。サッカーのほうがやりたかった」。それでも、Deeの才能は早々と開花した。3年生になると湘南地区へと移住、本格的にダンスに取り組み始める。「いつの間にか夢中になってました。最初にショウに出たのが4年生のときで、横浜〈クラブ・ヘブン〉の深夜イベント。今じゃ子どもがそんなところに出るなんて考えられないですけどね。その頃、プロになろうって決めて、あとは一切、勉強もせずにダンスだけです」

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昨年末、クラブチッタでSTUDIO S.W.A.G.が主催したイベント「KONNICHIWA」で、15年に一度解散したKING OF SWAGが復活した。

 01年、13歳になったDeeは湘南での修行を終え、川崎へと戻る。しかし、欲望が渦巻く街が、夢へ向かう彼を回り道させることになってしまう。「湘南では海の目の前に住んでいて、休みの日はサーフィンをしたり、スケートパークに行ったり。でも、それが川崎に戻ったら環境が変わって、悪い遊びに興味を持つようになってしまった」。そして、彼を元の道へと引き戻したのは、やはり、母の力だ。「ほんと、お母さんはイケイケで。オレが中学生のとき、弟のYuseiはまだ保育園に通っていて、お迎えは自分の担当だったんです。でも、先輩に呼び出されてボコボコにされ、行けなかったときがあって。家に帰ったら、お母さんがバット持って待ってて、またボコボコ。先輩とお母さん、どっちが怖いかって言ったら後者でしたね」。あるいは、由香も必死だったのだろう。周囲の子どもの中には道を踏み外していく者も多かった。「家庭裁判所に呼ばれたときも、お母さんが『ちゃんと更生させるから』と言って少年院に行かずに済んだんですけど、仲が良かった友達には行ったヤツも結構いて。さらに、中で職員の人を殴って長引いたり、親に沖縄に飛ばされたり。オレが不良の道に深入りしなかったのは、お母さんとダンスのおかげですよ」

 そして、05年、由香はダンス・スタジオをオープンする。立地は現在よりも川崎駅から遠く、講師は17歳のDee、ただひとりだった。「最初の生徒はYuseiで、その後も教えてたのはYuseiの同級生とか、近所の子どもとか。とにかく、お母さんは“川崎で教える”ということにこだわってたんです。それを通して地元を盛り上げたいし、『習いたい人が、わざわざ、川崎の外から通ってきてくれるぐらいのスタジオにしたいよね』って」。とはいえ、当初、経営は苦しかった。「有名なダンスの先生って、大抵、いろいろなところを掛け持ちで教えてるんですね。川崎の駅前にあるようなスタジオもそういうやり方をして、生徒を集めてる。でも、お母さんは、『それだとスタジオの個性がなくなっちゃうから、Deeはここ以外で教えちゃダメ』だと。ダンスに自信は持ってましたけど、評判はすぐには伝わりませんし、赤字続きで大変でした。『オレだって、外で教えれば稼げるのに』と思いながら、コンビニで働いたり、鳶の仕事をしてた時期もあった。一方で、お母さんも借金でスタジオを支えてたんです。ほかでもない彼女が、オレとYuseiの一番のファンで、才能を信じてくれてた」

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STUDIO S.W.A.G.のインストラクターや生徒のパフォーマンスを舞台袖で見守るDee。

 しかし、11年、由香は逝去する。Deeがダンス・バトルで名を上げ始めていた中での不幸だった。その後、スタジオの代表はDeeが引き継ぎ、同時期にYuseiや、D-BLASTというダンス・チームの仲間だったYoshikiらと組んだ新たなチーム、KING OF SWAGの活躍を通して彼はトップ・ダンサーとなる。〈STUDIO S.W.A.G.〉の経営も軌道に乗り、今や日本全国のみならず、中国や韓国からレッスンを受けにやってくる若者が後を絶たない。由香の夢は叶ったのだ。「見せてあげたかったですよね。スタジオの成功もそうですけど、亡くなった年に生まれたオレの子どもも。今、一緒にやってる仲間たちもほとんどは川崎の外から来たヤツらだし、お母さんに会ったことがないんです。でも、必ず、最初に彼女の持っていた考えを説明してます。そして、みんな感化されて川崎に越してくるっていう。お母さんの考え通りにやり続けた結果の成功なんで――オレもKING OF SWAGも、ダンサーとしての活動は海外に広げてるんですけど、スタジオに関しては川崎から離れることはない。もちろん、まだまだ改善すべきところはたくさんあるので、とにかく、“ここ”を最強にしたいんです」

EXILE TRIBEの誘いを断り地元のラッパーとつながるダンサー

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川崎区でSTUDIO S.W.A.G.を経営するDeeは、USの人気シンガーであるクリス・ブラウンと共演したことも。

 また、由香の意志はDeeの下の世代――Yuseiらにも受け継がれている。95年生まれの彼は、前述の通り、幼少時代からDeeに鍛えられたこともあって、やはり、早くから頭角を現した。小学生でw-indsのバックダンサーとしてNHK紅白歌合戦のステージに立ち、その後は、EXILE TRIBEのひとつ、GENERATIONSへの加入を誘われたという。「でも、断っちゃったんですよね」。Yuseiは何気なしに言う。「スタジオを手伝う時間がなくなっちゃうと思って。オレはあくまでも兄貴と一緒に、川崎でやっていきたかったので。家族からは『なに勝手に決めてんだよ、相談しろよ』って呆れられましたけど、今はスタジオで教えながら、GENERATIONSの振り付けをやらせてもらってますし、間違ってなかったなと」。そして、そんな自信たっぷりのYuseiでさえ刺激を受けたのが同郷、同世代であるBAD HOPの登場だった。「オレはT-PABLOWたちが通ってた川中島中学の隣の富士見中学に通ってて、その頃から彼らの噂は聞いてたんですけど、『高校生RAP選手権』を目にして泣きそうになるくらい感動して。思わず、ツイッターでPABLOWにメッセージを送っちゃったんです。『同世代でこんなにカッコいい人を見たことがない。実はオレはダンサーなんですけど、真剣にヒップホップをやってるんで、いつか、コラボレーションしたい』って。そうしたら、『Yuseiのことを知らないわけないだろ!』という返信をくれて」。市が打ち出す“楽のまち・かわさき”などという計画とは別に、川崎は若者主導でヒップホップ・シティとして発展しているのだ。

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平日の夕方、Yuseiのレッスンを受ける子どもたち。どの子も懸命に、そして楽しそうに踊る。

 もしくは、〈STUDIO S.W.A.G.〉では、川崎のさらに下の世代も育ちつつある。海外から生徒が押し寄せる一方、かつては不良だったDeeの地元の友人たちが親になり、彼らが子どもを預けるようになってきているのだという。Deeは語る。「『あいつのところだったら安心だ』って思ってくれてるんでしょうね。ただ、川崎の子どもたちをずっと教えていてわかったのは、なんだかんだ言ってもガラが悪い土地なんで、一定の年齢になるとダンスをやめちゃうんですよ。で、やっぱり、不良になってしまったり。もちろん、戻ってくるパターンもある。その後、ここの先生になったヤツもいますしね」。それは、いつかのDeeの姿でもあるだろう。そして、彼は母親にしてもらったように命をかけて子どもに向き合うのだ。スタジオの名前に冠した“SWAG”とは、“自分だけのスタイル”を意味するスラングだが、その言葉は彼の教育方針を示している。「ダンサーの間では『キッズを教えられるようになったら一人前』って言われるぐらい難しいんです。そこでウチのスタジオが大切にしてるのは、子どもに先生と同じダンスをさせるんじゃなくて、自分がカッコいいと思うダンスを見つけてもらうってこと。下手でも、表情がヤバいとか。そういうスワッグの追求は、たとえダンスをやめたとしても生きていく上で役に立つと思うんです」。さぁ、レッスンの時間だ。(つづく)

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STUDIO S.W.A.G.
Deeが経営する川崎のダンス・スタジオ。ダンス・シーンの第一線で活躍するインストラクターたちによるレッスンが、月曜から金曜まで行われている。超入門から中級まで生徒のレベルに合わせたクラスを用意。見学や体験レッスンも随時受け付けている。
住所:川崎市川崎区宮前町8-1 マツバラビル2F TEL:044-201-7188
URL:http://studio-swag.com

(写真/細倉真弓)

磯部涼(いそべ・りょう)
1978年生まれ。音楽ライター。主にマイナー音楽や、それらと社会とのかかわりについて執筆。著書に『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)、 編著に『踊ってはいけない国、日本』(河出書房新社)、『新しい音楽とことば』(スペースシャワーネットワーク)などがある。


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