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【岡美穂子×星野博美】イエズス会は日本人奴隷の売買に関与!? 宣教師とキリシタンのキワどい実態

2017年5月16日 11:00

――キリシタン史に詳しく、著書『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』がある東京大学史料編纂所准教授の岡美穂子氏。『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』で迫害された世のキリシタンの実像を綴ったノンフィクション作家・写真家の星野博美氏。この2人が、映画『沈黙』の問題点をあぶり出しながら、宣教師やキリシタンに関する歴史の真実に迫る!

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日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・サビエルは、天竺(インド)から来た仏僧だと思われていた。(写真/アフロ)

岡美穂子(東京大学史料編纂所准教授)×星野博美(ノンフィクション作家・写真家)

 教科書的なおさらいからすると、キリスト教は日本へは「南蛮貿易とセットでやって来た」、つまりポルトガルやエスパニア(スペイン)から世界各地へ布教に赴いた宣教師たちは、商業活動にもさまざまな形で携わっていました。その拠点のひとつがマカオで、だから映画『沈黙』の冒頭でも、あそこを経由してパードレ(司祭)たちが九州へやって来ます。

星野 あのマカオのシーンはめっちゃ手抜きで、オリエンタリズム丸出しだったのが面白かったですね。カンフー映画に出てくる酒場みたいな、適当な感じで。

 日本の描写は、原作小説『沈黙』のあとに進んだキリシタン研究から判明したことも入れ込んでいたのに、あそこは確かに……。ただ、マカオの波止場のあたりは19世紀に撮影された写真を参考にしているのかな、とも思いました。

星野 イエズス会の当時の戦略が「領主を教化して、民衆に広げる」というものだったからか、彼らはマカオで商業活動はしていたけれども、布教に力は入れていない。そこを分けて考えていたのが、面白いところですね。

 彼らは明(中国)の首都・北京において、どうやって自分たちのステータスを上げるかを考えていたんですよね。宣教師たちの商業活動への関わりということで少し宣伝させていただくと、私の夫ルシオ・デ・ソウザとの共著『大航海時代の日本人奴隷』(中央公論新社)を先日刊行したのですが、そこでは南蛮貿易で日本人が奴隷としてインドやアフリカなど世界各地に売られていたこと、それにイエズス会がどれくらい関わっていたか、売られていった人たちがどうなったのかについて書いています。

星野 豊臣秀吉は伴天連追放令で宣教師たちに「日本人奴隷を売買するな」と言っていますものね。

 イエズス会士は奴隷取引の斡旋まではしていないけれど、契約書に「正当な理由で奴隷になった人である」と証明するサインをしたり、奴隷に洗礼を授ける仕事もしていました。もちろん、スペイン国王に「やめてほしい」と働きかけていたことも事実なんですが……詳しくは本を読んでいただければありがたいです。

ザビエルが伝えたキリスト教を信長はインド仏教だと思った

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織田信長は本当にキリシタンに対して寛容だったのか? また、豊臣秀吉は伴天連追放令で宣教師たちに「日本人奴隷を売買するな」と伝えたという。(写真/アフロ)

『沈黙』に話を戻すと、江戸幕府に禁令されて宣教師が日本からいなくなった間に、キリシタンたちの信仰が歪んでしまったように描かれています。でも最近の研究では、16世紀の宣教師たちは、適応主義といって、現地に溶け込むように仏僧の格好をして頭の毛も剃り、聖書の翻訳にも仏教用語を用いていて、東インド経由でやって来たザビエルたちは「天竺(インド)から新しい仏教を持ってやって来たお坊さん」だと思われていたことがわかっています。

星野 イエズス会は中国で布教するときは儒服を着ていっていますしね。中国で初めは仏僧の格好をしていったら、石を投げられた(笑)。当時の中国の知識階層では儒教が重んじられていて、仏僧は相当下に見られていたので。

 ただ、ポルトガルやスペインの植民地だった場所では服装を合わせたり、訳語を現地で理解されやすいものにしたりする、ということはしていません。例えばインドでは、宣教師たちはバラモン僧と知的な交流があって、神学論争を試みているんですけど、バラモン僧の格好はしていないんです。

星野 植民地の人間は“未開”だから合わせる必要はない、という考えですよね。でも日本や中国、特に中国に対しては「神がいないのに、こんな高度な文明があるのか」という驚きとリスペクトがあった。今の多くの日本人はそう思っていませんけど、中国は歴史を見ればずっと世界のトップを走っていた国ですからね。20世紀には欧米と日本が中国を苦しめたけど、21世紀にはまたトップに戻りつつある。

「ここが文明発祥の地だ」と完全にかぶれるイエズス会士まで出てきたり。

星野 『沈黙』は「日本のキリスト教は変容してしまった」「日本は沼地だ、根っこが腐る」と強調していますけど──その主張と作中のキリシタンがあれだけ頑強で次々に殉教していることは矛盾していると思いますが、それはさておき──、中国こそ外国文化が来るとなんでも中国化する国なんですよ。中国では“デウス(神)”を“天主”とか“上帝”と訳したので、キリスト教は儒教の世界観で解釈されているし。だから『沈黙』を見て、「これだから日本は特殊だ」って日本特殊論に回収されちゃうと、それは違う。しかも、宣教師自ら適応したんですから。

 のちにフランシスコ会やドミニコ会といったほかの修道会が入ってくると、「なんだこりゃ? やりすぎじゃないか」とローマ教皇にも告げ口されて、粛正の動きが出てくる。でも、織田信長はザビエルたちが伝えたものを“天竺の仏教”だと思っていたし、秀吉の伴天連追放令を読んでも、彼らの教えを仏教の八宗九宗(奈良時代の南都六宗に平安時代の天台、真言、鎌倉仏教の禅宗を合わせたもの)に含めて捉えています。

 また、イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、ある大名の家臣団の中にいたキリシタンが「殿様から『法事があるから来い』と言われた。行かないと殺されてしまう」となったときに、ヨーロッパの神学界を巻き込んで「参加するだけなら構わない」というお墨付きをもらっています。つまり、折衷策を模索しながら、日本のキリシタンたちが異物として排除されないように努力していました。

島原の乱以降に出来上がった国家が民衆を管理する制度

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1586年にドイツのアウグスブルクで印刷された、天正遣欧少年使節(中浦ジュリアン、伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル)の肖像画。(写真/The Bridgeman Art Library/アフロ)

 では、なぜキリシタンは弾圧されるようになったのか。秀吉の伴天連追放令や江戸幕府の禁令では「日本は神国だから伴天連の教えはなじまない」というような言い方がされていますが、あれは建前だと思います。彼らは信長の時代に一向宗が武装して蜂起したことを経験していますから。

星野 九州のキリシタンも一向宗と同じように見えたはずですよね。信者が増え、貿易で街が栄えて経済的な基盤もでき、武器も持っている。まるで“寺内”のよう。それでスペイン、ポルトガルの影がチラついたら、為政者にとっては恐怖。

 上方に比べて九州での宣教師の振る舞いは大胆だったんです。秀吉は長崎に赴いて自分の目で実情を見たときに、ビックリして「これはマズい」と思った。

星野 「キリシタンに対して信長は寛容だったけど、秀吉が追放令を出し、家康が徹底的に迫害した」みたいに思われているけれど、実際には家康は段階を踏んでいたし、「殺しまくれ」といった激烈なことはしなかった。理性的に「外国人は、どうぞ日本から出ていってください」というスタンスだったと思います。むしろ信長が長生きした場合のほうが、容赦なく迫害したんじゃないかな。

 私もそう思います。「外国勢力が日本のキリシタンと結託して攻めてくる」ということは、江戸時代初期までは現実的な脅威でした。スペインからではなく、フィリピンから艦隊を派遣可能だったわけですからね。国内を見ても、大坂の陣(1614・15年、徳川家康が豊臣家を滅ぼした2度の戦い)で豊臣家サイドについた勢力には明石全登などキリシタン武将が多かったし、東北にはローマ教皇に使節団を派遣した伊達政宗だっていた。禁教政策が激しくなった時期は、まだ江戸幕府が太平の世を築く作業は完了しておらず、権力が盤石になる前です。そこに島原の乱というキリシタンによる大型軍事行動が起きたので、ものすごいインパクトがあった。

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島原の乱で一揆軍の総大将となったのは、キリシタンの間のカリスマだった16歳の天草四郎。(写真/アフロ)

星野 『沈黙』では「西から来た宣教師を東の役人が弾圧する」みたいな構図になっているし、日本人は隠れキリシタンのことを「迫害から逃れて信仰を守った」といった美談にしたがるんだけれども、そこでは「誰が迫害したのか」という主語が抜けているんですよ。キリシタンの迫害の歴史とは、日本人が同じ日本人を徹底して弾圧し、差別した歴史であって、それが問題の本質なんです。

 しかも、このことは今の日本社会のありようと関係しています。島原の乱によってキリシタンが江戸幕府にとってあまりにストレスフルな存在になったので、本人確認をするだけでなく家族史を代々さかのぼってたどっていけるような寺請制度(個人が寺の檀家であり、キリシタンや不受不施派などの信徒でないことを、檀那寺に証明させた制度)や戸籍制度が作られた。例えば中国では、いまだに厳密な人民管理なんかされていません。中国は広すぎ、人が多すぎ、管理しきれない社会。でも、日本は17世紀から幕府が人民を管理しようという強い意志を持ち、それが近代に入って外国と戦争するとなったときには、「どこに何歳の男子が何人いる」というのがすぐ把握できたことにつながっている。今でも、パスポートを取るにも戸籍謄本を持ってこいと言われ、町中には至る所に交番があるような管理社会が続いている。島原の乱以降、国家が民衆を管理しやすい体制が出来上がっていくんですね。

 就職するときにも戸籍謄本を出させられたりしますからね。最近の“忖度”問題じゃないですが、江戸幕府が禁令を出しても宣教師が諦めずに密入国してくることに対して、幕藩体制の中で藩の首脳部が「ウチには後ろ暗いことは一切ないです」とお上(幕府)に言いたいがために、藩の取りつぶしを恐れてキリシタンの取り締まりを過剰に厳しくした面もありました。長崎の外海で佐賀藩の飛び地領の場合は役人もキリシタンなので、お上から言われない限りは動かなかったけれど、同じ外海でも大村藩などではキリシタンを必死で殲滅しようとしました。

『沈黙』が描いた時代の長崎は 激しく弾圧された暗黒都市

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元和の大殉教は、江戸時代初期の1622年、長崎・西坂でキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件。(写真/アフロ)

星野 ところで、『沈黙』は作中の設定が1640年前後ですよね。つまり、島原が無人になるくらいの大虐殺が行われた島原の乱の直後です。あの頃、外海であんなふうにキリシタンたちが夜みんなで礼拝したり、五島にパードレが行ったら信者がわらわら寄ってくるなんて、あり得ない。五島は早くに布教したけれども、弾圧も早い段階で始まったので、あの時代にはキリシタンはいなかった。18世紀に入って、五島で赤痢がまん延して人口が激減したときに、「あそこならほかの住民と容易に接触できないだろう」ということもあって、どう弾圧してもいなくならないキリシタンたちを大村藩が開墾移民として押し込んだんです。五島が“隠れキリシタンの里”になるのはそれ以降ですよ。そんな後世に作られたイメージに乗っかって、安易にあの年代のあの場所を舞台にしないでほしい。禁教政策に対して抜け道がなかったわけではないけれども、あの時代がああだったかのような描き方に、いくらフィクションとはいえ、私は譲れないものを感じます。

 もっと時代が下って侍もサラリーマン化していくと、人を斬ったり鎮圧したりするのは大変だし、「キリシタンがいた」ということは自分の責任にもなりますから、1657年の大村藩の郡崩れ(潜伏キリシタンの検挙事件)を最後に、長らくそのあとは“見て見ぬふりをする”ようになっていくんですけどね。

星野 郡崩れのときは島原の乱からまだ20年くらいしかたっていないから、大村藩は強烈に弾圧したんですよね。「長崎は常に外に向けて開かれた場所だった」なんて、神話なんです。今はきれいな教会が建ち並んでいますけど、あれは明治になってから作られたものですからね。

 近代に入って「欧米列強に追いつけ」となったときに、「今までは差別の対象だったけれども、実は自分たちのほうが進んでいるんだ」と示したかったキリスト教徒が建てた。

星野 そうです。長崎は、『沈黙』の頃は、キリシタンが生きていけないほど徹底的に弾圧され、監視の目が網のように張りめぐらされた暗黒都市ですよ。

 今はクリスチャン、ミッション系にはハイソなイメージがありますが、明治時代でもまだそうではなく、迫害や差別の対象であって、「キリシタンの家にはウチの娘を嫁にはやれん」みたいな事態は平気でありました。

星野 そのあとだって続いているんですよ。五島出身の私の友人のお父さんも「五島でキリシタンが差別されたのは、明治から」と言っていました。そういうことを無視して、「長崎の美しい教会を世界遺産に」みたいな運動をされても……。

 観光目的でPRしているわけですけど、迫害時代の研究をちゃんとやっていないから、ユネスコからも突っ込まれてしまっている。

クリスチャンの遠藤周作が小説『沈黙』を書いた罪

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『沈黙』で描かれた時代の長崎・五島に、キリシタンはいなかった!?  (c)2016 FM Films, LLC.  All Rights Reserved.

 ちなみに、『沈黙』では踏み絵をやらせていますけど、あれは実際には踏んだ後もキリシタンだった人のほうが多かったはずですよね。

星野 確かに、踏み絵を踏むことは形骸化します。ただ、隠れキリシタンは踏んだことに対する禊ぎ、贖罪の儀式はずっとやっています。呪文を唱えたり、草履を水で清めたり。そういうところを突っ込んで「あんなのキリスト教じゃない」と言う人がいますが、それは酷でしょう。死ねばよかったのかと。

 少し話を戻しますが、『沈黙』と史実の混同ということでいえば、ヴァリニャーノだって本当はとっくに死んでいる年代なのに、作中では生きていて、日本のイエズス会を統括している人物として登場しますよね。だから私は、「これはフィクションですよ」「“文学作品”であって史実に基づいた“歴史小説”ではないんですよ」と主張しながら遠藤周作氏は原作を書いたのかなと思っていました。

星野 しかし、執筆段階でイエズス会の神父からレクチャーを受けていましたし、知識がない人が読んだら「このときはこうだったんだ」と事実だと思う仕掛けがいくつもある。例えば島原の乱を題材にした作品だと、私も大好きな映画『魔界転生』(山田風太郎の伝奇小説を原作として深作欣二が監督した1981年の映画)なんかがありますけど、あれを観たって、誰も事実だと思わないわけですよ(笑)。なのに、遠藤周作氏がクリスチャンだったというだけで、思考停止して史実と混同してしまう人があまりにも多い。

 遠藤周作氏には『切支丹の里』(71年)というノンフィクション風の著作もあり、そこでは外海をガイドしてくれた方が“隠れ”だと知ると、「背教したという歴史を背負っているがために、この人はこんな暗い顔をしているのだろう」みたいな書き方をしていて(笑)。自分があらかじめ持っているイメージを対象に投影してしまう作家なんでしょうね。

星野 遠藤氏が自分の信仰心の揺らぎを投影して小説に書くのは構わないんです。でも、あれだけの売れっ子クリスチャンにやられると、後世の人間がいくら「違う」と言っても、なかなかひっくり返せない。今回の映画では、それに「スコセッシ監督が撮った」「ローマ教皇も観た」という「日本すごい!」観が加わって、ますますその傾向が強まっちゃったなと。

 原作は、66年の刊行当初は、カトリックから「焚書にしろ」という声が上がるくらい反発があったのに。

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長崎の観光スポットとなっている大浦天主堂は、島原の乱から200年以上たった1864年に建てられた。(写真/Hannes Rada)

星野 もちろん、ネットでは怒っているキリスト教徒もたくさんいますけどね。あの時代を描いた小説なら、『沈黙』ではなく、飯嶋和一氏の『出星前夜』(小学館、08年)を読んでほしいと強く思います。

 飯嶋氏は『黄金旅風』(同、04年)もイイですよね。学術書以外のノンフィクションなら、星野さんの『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋、15年)や若桑みどり氏の『クアトロ・ラガッツィー 天正少年使節と世界帝国』(集英社、03年)も読んでみてほしいです。

星野 日本のキリシタン史においては、我々があれだけの人たちを抹殺して今の日本を作り上げてしまったということが重要なんです。その前提をなしに、『沈黙』という映画を観た人が「死を恐れない、特攻隊みたいな日本人がいた」という理解をして、自分にまったく関係ないこととして処理してしまうのは、的外れを通り越して、危険ですらある。そんなことに気づいてくれたらうれしいです。

(構成/飯田一史)

岡 美穂子(おか・みほこ)
1974年、神戸市生まれ。人間・環境学博士(京都大学)。スペイン、ポルトガルなどへ留学。現在は東京大学史料編纂所の准教授としてキリシタン史などを研究。著書に『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』(東京大学出版会)、共著に『大航海時代の日本人奴隷』(中公叢書)がある。

星野博美(ほしの・ひろみ)
1966年、東京生まれ。ノンフィクション作家・写真家。2001年に『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞、12年に『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞。ほかに『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋)、『謝々! チャイニーズ』(文春文庫)など著書多数。

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