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世界的な“むし”の権威が語る!――技術革新で変わる採取と新種の発見
2020年12月21日 11:00
2016年5月 4日 11:00
――「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の戦前の皇族にもスキャンダルはあった? 当時は一部でしか知られていなかった、あるいは完全に秘されていた天皇、そして皇族たちにまつわるさまざまな噂話、風説、醜聞の数々を追う!
1947(昭和22)年に施行された日本国憲法のもと皇室会議が開かれ、当時の14宮家のうち11宮家51人の「皇籍離脱」が決定される。写真は同年10月18日、赤坂璃宮で開催された夕食会の際の皇籍離脱する人々のスナップ。
近年の眞子・佳子フィーバーや、「週刊文春」が2007年に報じた、高円宮家の長女・承子女王によるイギリス留学中の“奔放mixi”騒動など、皇室の人々に関するニュースは今日でも、ある種のセンセーションと共にスキャンダラスに報じられることが多い。では、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」であった戦前には、そうしたスキャンダルは存在しなかったのだろうか? もしあったとするならば、どのような事件がどう報じられていたのだろうか? 近現代の皇室事情に詳しい、静岡福祉大学の小田部雄次教授に話を聞きながら、考察していくこととしよう。
「何をスキャンダルととらえるかにもよりますが、お騒がせ事件程度のものから襟を正すべき事柄まで、皇室にまつわるニュースは、戦前から国民の関心事のひとつではありました。ただし、千田稔さんが『明治・大正・昭和 華族事件録』(新潮文庫)で書いているように、明治期にかつての公卿と諸侯を統一して創設された同族集団である『華族』の場合は人数も多く、殺人、詐欺、情事、反社会行為、法令違反など数多くの事件が報道されているのですが、『皇族』──すなわち『天皇の血統である皇胤と皇胤男子の配偶者』に関しては人数も多くなく、また不敬罪に問われる可能性もあったため、当時においては、いくつかの事件がスキャンダルのように扱われた、という程度だったと思います」(小田部氏)
場合によっては「スキャンダルのように扱われた」という皇室関連の話題。その最たるものは、大正天皇に関する一連の噂話だろう。
「大正天皇の“奇行”については、原武史さんの『大正天皇』(朝日文庫)に数多く紹介、分析されていますが、その中でも最も一般に知られているのは、『遠眼鏡事件』でしょうね」(同)
元来病弱で、“精神薄弱説”などが巷間まことしやかに語られていた大正天皇。その“根拠”のひとつとしてよくいわれるのが、帝国議会の開院式で詔勅を読みあげた大正天皇が、その後持っていた詔書を筒状に巻いて、遠眼鏡のように覗いたとされる事件。しかし、このエピソードについては、その時期や目撃した人物など多くの点が不明であり、実際にあったかどうかよくわからないところがあるのだという。
「大正天皇は漢詩に才能を発揮するなどしていますし、知的な障害を抱えていたなどというのはあり得ないでしょう。遠眼鏡事件が本当だとしても、彼の几帳面な性格を表したもの──すなわち、覗くことによってきっちり丸まったかどうかを確かめようとした、ととらえることも可能です。いずれにせよ当時は皇室への批判や憎悪を語ることが許されない時代だったので、噂話の域を出ない“奇行”を誇大に吹聴することで、一般国民も憂さを晴らしていたという面もあるでしょう。『遠眼鏡事件』が語られるようになったのは、そんな庶民感情の表れだったのかもしれません」(同氏)
正式な報道がなされたわけでもないのに、後々まことしやかに語られる噂話や憶測のようなもの。それは、国民の注目度のわりにその詳細が開示されることの少ない──すなわち、さまざまな噂や憶測を呼びやすい「皇室スキャンダル」ならではの現象といえるだろう。
「皇太子婚約解消事件」と「宮中某重大事件」
とはいえ、そのようにある種“タブー”であった皇室関連の報道にあって、皇太子の婚姻にまつわる報道は当時の国民にとっても大きな関心事のひとつであり、新聞各紙などでも大きく報道されていたようだ。例えば、のちの大正天皇である皇太子嘉仁の婚約にまつわる一連の騒動。1893(明治26)年、14歳だった皇太子嘉仁は、当時8歳の伏見宮禎子と婚約する。しかし、その6年後の1899(明治32)年、その婚約が突如解消されたのだ。その理由には諸説あるものの、男子出産のために必要な健全な母体であることが不安視されたというのが大方の見方である。そこには、明治になって明確に定められた「男系男子」という規定に皇室自らが縛られ、また側室廃止の流れもあり、将来の皇后の選択に慎重になったという事情もあるようだ。そこで新たな妃候補として浮上したのが、家の方針で農家で育てられた九条節子であり、1900(明治33)年、嘉仁親王と婚約、同年挙式し、皇太子妃(のちの貞明皇后)となる。このあたりの経緯は、浅見雅男の著作『皇太子婚約解消事件』(角川書店)にも詳しく書かれている。ちなみに、明治天皇との間に子どもができなかった一条美子(のちの昭憲皇太后)に対し、この貞明皇后は結婚の翌年に、昭和天皇となる裕仁を出産。その後、のちに秩父宮、高松宮、三笠宮となる計4人の男子を出産するなど、男系の皇位継承を盤石にすると同時に、皇室内部での発言力を強めていった。
そして、大正天皇のこの婚姻問題と非常に似た構図が見て取れるのが、そのおよそ20年後に起こり、歴史の教科書にも登場する「宮中某重大事件」、つまり、のちの昭和天皇である皇太子裕仁の妃選びについてのひと騒動である。それは、1921(大正10)年の出来事。裕仁親王の妃に内定していた久邇宮良子(のちの香淳皇后)の家系に色覚障害の遺伝があるとして、元老・山縣有朋らが、同女王および同宮家に対して婚約辞退を迫ったのである。
「戦前で最も知られた皇室の事件といえば、やはりこの『宮中某重大事件』でしょう。これは宮中の問題のみならず、元老・山縣と久邇宮家という権力者同士の争いでもあったため、当時の人々の関心もとりわけ高かったようです」(同氏)
良子の兄・朝融王が、学習院の身体検査において色弱であることが発覚したことに端を発するこの事件。当時、軍部と政界に隠然たる勢力を持っていた山縣が、いよいよ皇室への干渉を始めたとあって、さらには久邇宮良子の実母・俔子が薩摩島津家の出身だったことから、「長州出身の山縣は、皇室に薩摩の血が入るのを嫌っているのではないか?」といった憶測が流れるなど、この一件は、宮中、政界、世間を巻き込んだ一大騒動となったという。しかし最終的には、裕仁親王本人の意向もあり婚約内定は継続。その結果、山縣は権威を失墜させることになる。つまり、明治に起こった、のちの大正天皇の婚姻問題とは違い、当初の妃候補がそのまま皇太子妃になったのである。
ちなみに、このとき宮中側の人間として立ち振る舞ったのは、病弱な大正天皇に代わって宮中での影響力を強めていた貞明皇后であった。彼女の辣腕ぶりはその後も発揮されており、戦後出版された『高松宮日記』や『木戸幸一日記』によると彼女は1935(昭和10)年頃、ダンディで“ゴルフの宮様”としても知られた朝香宮鳩彦の女性問題──鳩彦王が新橋の芸者に子どもを産ませたというスキャンダルの火消しのため、彼が芸者に送った手紙13通を5000円で買い取り問題を解決するなど、芸能プロのマネージャーばりの問題解決能力を見せている。
欧化政策を意識し自ら積極的に洋装に着替え、女子教育に力を入れのちの日本赤十字社の設立にも寄与した昭憲皇太后(明治天皇皇后)、前出の貞明皇后(大正天皇皇后)、そして、若い頃はその貞明皇后との嫁姑関係に悩まされたともいう香淳皇后(昭和天皇皇后)、さらに、“ミッチー・ブーム”で戦後的な新しい皇室イメージを国民に対し強烈に植え付け、今上天皇の“平和行脚”にも積極的に関与しているともされる皇后美智子(今上天皇皇后)。日本の近代皇室史において皇后が果たしてきた役割については、小田部氏の著作『昭憲皇太后・貞明皇后』(ミネルヴァ書房)や、原武史著『皇后考』(講談社)などにも詳しい。
“傍流”宮家の面々の度重なるスキャンダル
ここで改めて、戦前の宮家について考えてみることにしよう。
江戸期までは、四親王家と呼ばれた伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮の四宮家が、天皇家の血統が断絶した場合の皇位継承者を出す宮家として存在した。このうち、桂宮は江戸末期の120代仁孝天皇の血統(宮家自体の創始は安土桃山時代)、閑院宮は江戸中期の113代東山天皇の血統、有栖川宮は同じく江戸中期の112代霊元天皇の血統(宮家自体の創始は江戸時代初期)、そして伏見宮に至っては、南北朝期の北朝3代崇光天皇の血統である。つまり江戸期までは、こうした“遠い親戚”を皇位血統者として残しつつも、親王宣下、臣籍降下によって皇族(江戸期までは「皇親」のほうが一般的)が増えすぎないように調整されていたのだ。
しかし、明治維新前後の騒乱の中、還俗する親王が増え新しい宮家も次々と創設され、皇族の定義も流動的となる。これを確定させたのが、1889(明治22)年の大日本帝国憲法と同時に制定された旧皇室典範であり、養子の禁止、皇族男子の配偶者も皇族とするなど、それ以前にはない規定も近代法の中に位置づけられた。つまり近代における「皇族」とは明治半ばに改めて定義づけられたのであり、そういう意味ではきわめて”政治的”に作られたものなのである。
さて、旧皇室典範制定以降、皇族集団たる宮家は、計15となる。桂宮、有栖川宮が早くに断絶する一方、子だくさんであった伏見宮の系統に11宮家が新設されていく。つまり明治天皇の直系以外の“傍系宮家”の皇族たちは、そのほとんどが南北朝期にまで遡らないと天皇家と祖先を同じくしない者たちの集団となっていくのだ。そして、そうした傍流宮家の皇族たちは、欧化政策の一翼を担い国民の模範となるべく、積極的に海外留学をさせられていく。そのことが、皇族スキャンダルにもつながっていくのである。
明治天皇の内親王(娘や女性の孫)を娶った四皇族のうち、東久邇宮稔彦王、朝香宮鳩彦王、北白川宮成久王の三皇族は、大正期にそれぞれフランスに留学し、ヨーロッパで豊かな生活を享受。東久邇は妃や家族を本国に置いたままパリの社交界で浮名を流し、北白川夫妻は、成久王は狩猟、房子妃は劇場とデパート通いを重ねたという。さらに北白川夫妻と朝香宮は、1923(大正12)年、成久王自らが運転する車に同乗、パリ郊外で自動車事故を起こし、房子妃と朝香宮は重傷、成久王は薨去してしまう。このニュースは、当然ながら日本でも大きく報じられることになった。
「明治時代初期は新政府が作られたばかりであり、その後、日清・日露戦争、そして1918(大正7)年に終結する第一次大戦まではとにかく戦争が続いて国内に緊張感があり、皇室といえどもスキャンダルを起こしている場合ではなかった。しかし、その後、大正時代に青春期を送った皇族たちは、名目は軍事留学といっても戦争の火種があるわけでもなく、さらに当時日本は一次大戦で外貨を獲得して好景気でしたから、彼らも結構なお金を持っていたんですね。そのお金で彼らは豪遊していた。3人の中で唯一交通事故に居合わせなかった東久邇宮稔彦王にしても日本への帰国を引き延ばし続け、結局大正天皇が崩御するまで帰国しなかった。ただ、事故そのものは報道されたけれど、彼らのヨーロッパにおける奔放な生活は報道規制されており、その詳細が一般の人々に知られるのは、ずっと後になってからのことでした」(小田部氏)
軍に利用される皇族たち 三笠宮と「津野田事件」
さらに、戦前の「皇室スキャンダル」のもうひとつの遠因として、小田部氏は、「皇族と軍の密接なかかわり」を指摘する。先述した海外留学と同様、国民の模範となるという意味もあり、戦前の皇族男子は軍人でもあったのだ。
「もちろん最前線に飛ばされることはありませんが、戦前の皇族は、天皇以外、普通に軍隊に入っていた。昭和天皇の弟である三笠宮崇仁は、陸軍士官学校を卒業後、陸軍に入隊、太平洋戦争時の一時期は南京の総司令部に勤務しています。一方、特に戦争末期には、軍の中に天皇を担いで国家社会を変えようとクーデターを目論む者たちもおり、彼らの一部は、天皇の弟だということで三笠宮に近づいてくるわけです。宮様としても、彼らは軍の仲間であり、あまりむげにもできない。そのうち彼らから頼りにされて、打ち明け話をされたりする。そのひとつが、いわゆる『津野田事件』──東條英機暗殺計画でした」(同氏)
「津野田事件」とは、1944(昭和19)年に発覚した、東條英機暗殺未遂事件である。陸軍軍人の津野田知重が、当時の東條内閣打倒を目指して計画したが、東條はすでに辞任。結局、未遂に終わったものの、その計画をあらかじめ耳にしていた三笠宮は、その計画を憲兵隊に告げ、貞明皇后の助言のもと、津野田と周辺の者たちを、各方面を刺激しない最小限の形で処分したという。
同様の事件としては、同じく昭和天皇の弟であり陸軍の軍人でもあった秩父宮と「二・二六事件」のかかわりも噂されていたという。
「1936(昭和11)年の二・二六事件の首謀者のひとりである北一輝の下に、西田税という人物がいるのですが、彼はもともと軍隊で秩父宮と同僚。そこで彼は秩父宮に盛んにアタックし、天下国家を論じ、秩父宮もそれに感化されるようなところがあったというんです。秩父宮は、満州事変の首謀者である石原莞爾が参謀本部で上司だったこともあり、石原のことも支持していたようですから。当時、皇室と軍人は、それほどまで近い関係にあったということですね」(同氏)
無論これらの関係性は、いずれも事件直後に公表されたものではない。スキャンダルとして世間一般の人々が知り得るものなどではなかったのだ。では、それらはいつ頃どのようにして、我々一般国民にまで知られるようになったのだろうか?
「宮中内部の情報が一気にわかるようになった大きなきっかけとして、戦後の東京裁判の存在があります。東京裁判では、太平洋戦争期に内大臣であった木戸幸一の『木戸幸一日記』と、元老・西園寺公望の私設秘書などを務めた原田熊雄の『西園寺公と政局』という2つの資料を検察側と弁護側とで没収し、一般公開しました。それによって、これまで憶測や噂のみ流布していた宮中内部の情報が、一般国民にもわかるようになった。この2つはその後出版されますが、そこには太平洋戦争に直接関係すること以外の情報も当然書かれており、『あのとき宮中でこんな話があったんだ』というのを、ようやく一般の人々も知るようになったのです」(同氏)
しかしそれらの資料でも、当時在位中であった昭和天皇自身にかかわる記述は、「ご遠慮」という形でほとんど公表されなかった。昭和天皇に関する当事者のまとまった記録が世に出たのは、昭和天皇崩御後の1990(平成2)年、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の『入江相政日記』と、昭和天皇の信任厚かった牧野伸顕による『牧野伸顕日記』が初である。同年には、昭和天皇が戦直後に側近に対して語った談話をまとめた『昭和天皇独白録』も発表される。さらに2015(平成27)年には、宮内庁編纂による昭和天皇の“正史”である『昭和天皇実録』の刊行も開始された。
天皇の側近や皇族自身による「日記」の刊行によって、ようやく過去の出来事の真相が明らかとなっていく。当時は公表されなかったことが、周辺の人物の証言などによって、徐々に判明していくこと。それが、ほかのスキャンダルとは異なる「皇室スキャンダル」ならではの特徴であり、それを解読するなによりの醍醐味ともいえそうだ。
(文/麦倉正樹)
今上天皇に連なる天皇家と、15宮家の系譜
戦前皇族の多くを占めた伏見宮系の皇族たちは、南北朝時代の北朝3代崇光天皇(在位:1348~1351年)まで遡らないと、今上天皇につながる血統とは交わらない。
※略した代数は、天皇は皇位継承の代数、皇族は当主の代数を示す。
【参考文献】
小田部雄次『皇族 天皇家の近現代史』(中公新書、2009年)、小田部雄次『昭憲皇太后・貞明皇后』(ミネルヴァ書房、2010年)、浅見雅男『皇太子婚約解消事件』(角川書店、2010年)、原武史『大正天皇』(朝日文庫、2015年)、原武史『皇后考』(講談社、2015年)
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