>   >   > 「小田嶋隆の東京23話」/品川区

東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

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(絵/ジダオ)

 中延で暮らし始めて、7年になる。

 独身時代に勤めていた外資系の証券会社から、復職を促すメールが届いたのは、移り住んできた翌年の1993年のことだった。ということは、自分は、以来、まるまる6年間、息子を義母にまかせきりにしてきたことになる。来年の春には大輝も小学生だ。そろそろ先のことを考えないといけないのかもしれない。七子は、ふと窓に映った自分の顔に気づく。池上線の車両の暗い窓の中からこちらを覗き込んでいる女の表情は、驚くほど母親に似ている。私は不幸なのかもしれない。彼女は、生まれて始めてそう思い始めている。

 午後8時をまわった池上線の車両は、70パーセントほどの乗車率で運行している。帰宅する頃には、大輝はもう眠っているはずだ。義母のヤエは夜更かしを許さない。というよりも、自分が目覚める午前5時に大輝を起床させるスケジュールから逆算して、早い時間の就寝が習慣として身についている形だ。今時の子どもにとって、午後8時に眠りにつくことが良いことなのかどうか、七子には判断がつかない。それ以前に、何が大輝にとって望ましい生活であるかは、ヤエの専権事項だった。

 ヤエは、夫である篠田の母親で、この秋に77歳になる。86年に結婚した当初、七子は同居の可能性をまったく考えていなかった。篠田にもそのつもりはないはずだった。しかし、91年に篠田の父親が脳溢血で倒れ、半年の闘病を経て亡くなってみると、篠田の態度は微妙に変化していた。中延の古い木造家屋に、母親をひとりで置いておくことにうしろめたさを訴えるようになったのである。

 結局、週に何度か、七子が、生まれたばかりの大輝を連れて、中延の実家に顔を出すことになった。篠田は、当時、フィールドワークと文献漁りに忙殺されていて、研究室に泊まることが多かった。結婚以来住んでいた駒込の賃貸マンションには、月のうちの半分ほどしか戻らなくなっていた。

 七子にしてみれば、3時間から5時間ごとに、目を覚ましては泣き叫ぶ乳児との一対一のやりとりに、ほとほと疲れ切っていた時期でもあったので、ほんのしばらくでもヤエに大輝を委ねられる中延での時間は、一面、救いでもあった。

「七子さん、あなた、たまにはひとりで映画ぐらい見に行きたいでしょ?」

 思い出してみれば、あの時期、ヤエは別人のように言葉つきの穏やかな女性だった。

「当たり前じゃない。あんたそんなことも知らなかったの? 姑が姑になるのは同居するからで、実家に出かけた時に迎えてくれる年配の女性は、あれは夫の母親っていう名前の守護天使だよ」

 と、同僚が言っていたことを思い出す。

「あたしの姑だって、同居する前は、それこそ自分の母親より懐かしく思える人だったからね」

 彼女の説によれば、主たる問題は、双方の人間性や性格にではなくて、2人の人間が同じ空間の共有する不幸な関係性の中にある。二匹のアシダカグモは、適正な距離を置いて暮らしている限りにおいて、互いにとって無害だ。が、ひとつの閉鎖空間を分かち合うことになった二匹のアシダカグモは、互いの脇腹に牙をあてがう致死的な暗殺者になるのだ。

 同居は、意外に快適だった。七子にとっては、密室での一対一の育児から、解放されたことがありがたかった。職場に復帰できたことも、ヤエの助力抜きには考えられない。ヤエの側から見て、育児の負担は小さくなかったが、夫の急死で意気阻喪していた身にとって、家族が増えることは、悪い取引ではなかった。もっともこの同居から一番大きなメリットを引き出していたのは、篠田だった。

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