>   >   > 「小田嶋隆の東京23話」/墨田区

東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

【小田嶋隆】墨田区――舎弟のアパートから追い立てられ、ホームレスになったある男の話の画像1
(絵/ジダオ)

 しばらくぶりに隅田公園に来ている。20年ぶりになる。以前ここに来たのは、西新宿の共同アパートから夜逃げをした時だったろうか。以来、健二にとって、この公園は再出発の場所になっている。今度はどの程度の期間になるのだろう。簡単には済まないかもしれない。なにしろ年齢が年齢だ。前にここへ来た時とは違う。

 カネはあるといえばある。

 ただ、その絶対に手をつけないために厳重にラップしてリュックサックの底面にガムテープで貼り付けてある10枚の1万円札を別にすると、手持ちの現金は3万円に満たない。とにかく、カネをなんとかしないといけない。最低でも30万円の現金を作ろう。先のことを考えるのはそれからだ。そう考えながら、健二は公園の横の遊歩道に入っていく。

 3日前、弟分のアパートから追い立てを食らった。追い立て、という言い方は少し違うかもしれない。話を切り出す時、禎三は泣いていた。

「すみません。こんなこと言いたくないんですが」

「なあに、気にすんな」

 禎三が涙ながらに語ったところによれば、自分はいつまでいてもらっても構わないのだが、田舎から妹が出て来ることになったというのだ。池袋にある専門学校に通うつもりらしい。なんでも禎三の身内では唯一カタギの暮らしをしている大切な妹なのだそうだ。だから、なんとしても面倒を見なければならない。オレのイノチに変えても、とか、そんな調子の話だ。どこまで本当なのかはわからない。というか、ウソに決っている。どうせ新しい女ができたとかそんなところだろう。禎三は、妹の面倒を見るようなタマではない。そんな男なら、そもそもこの世界でシノギなんかしていない。やくざものに身を落とす人間は、そうなる以前に、身内を一通り裏切ってきている。妹であれ母親であれ、むしり取れる相手からは、ありったけむしり取っている。で、ムシるものが何も無くなったタイミングでこの世界の門を叩くのだ。逆の場合もある。身内の人でなしに容赦なくむしり取られて逃げ出してくるケースだ。いずれにせよ、オレたちは身内とは縁の切れた人間だ。面倒を見る理由なんかあるはずがないのだ。なにしろ、自分自身の面倒が見られないのだから。

 でもまあ、禎三のところに住んで3カ月になる。そうそう二回りも年下のチンピラのアパートに居候を決め込んでいるわけにもいかない。こんなウソのヘタな、上がり目のないチンピラにやっかいをかけているようでは、オレのほうが立ち行かなくなる。良い機会だ。出ていくことにしよう。

「ただな」

 と、健二は最後にこう付け加えた。

「こっちにも条件がある」

 家賃も入れずに勝手に転がり込んでいる身の上で、条件もへったくれもないものだが、この世界の上下関係では当たり前のことだ。オレはこいつが高校中退でこの世界に入ってきた時から知っている。なんだかんだで、金額に直せば30万や50万ぐらいの面倒は見ている。恩だの義理だの言ってるが、要するにギブ・アンド・テイクってことだ。

「一週間時間をくれ。その間に次の落ち着き先を見つける。それからカネだ。当座の引っ越し費用に5万都合してくれ。いずれ返す」

 で、今日がその日から数えて3日目に当たる。次の落ち着き先は、まだ見つかっていない。今さら遠い親戚に出せる顔ではないし、まさか実家に帰るわけにもいかない。第一、家が残っているのかさえわからない。かすかにあてにしていた昔の知り合いも、いざ連絡をしてみると、かえって縁が切れるばかりだ。羽振りの良い組の連中は、オレを寄せ付けようとしない。話をするだけで耳が汚れると言わんばかりの態度で電話を切ろうとする。といって、多少とも気持ちがつながっていそうな奴らは、揃って不遇をかこっている。どこでも同じだ。厭な野郎ばかりが肩で風を切っていやがる。

 禎三のところにいる間は、パチンコで食っていた。食っていたといっても、タネを明かせば、毎晩10時に近隣一帯のパチンコ屋の打ち止め台をメモして、次の朝一番にその打ち止め台を確保する標準活動を地道に続けていれば、それほど負けずにパチンコを打ち続けていられるという話にすぎない。

 もっとも、この「常連になれば負けない」「優秀なパチプロは月に100万稼ぐ」「パチンコ店の経営はフリーの客の負け分で成り立っている」といったお話にしたところで、パチ屋に常駐しているギャンブル依存症患者が宗教みたいに信じている都市伝説の類だといってしまえばそれだけの話ではある。常連であっても、要領の悪い連中は、いずれ手酷い負け方をしてどこかに消えていく。ツキに見放されて負け続けたあげく、タチの悪い借金に手を出して消えたパチプロを、いったい何人見たことだろうか。健二自身は、幸か不幸か、この3カ月の間、最低限の暮らしをつなぐだけのアガリを稼いではいた。が、こんな生活が続かないことはわかっている。パチンコ玉を打っている人間は、いずれ自分自身が暗い穴の中に吸い込まれる。彼らは、心のどこかでそれを望んでいる。そういうふうに破滅を夢見ることが、ギャンブル依存に陥った人間に残された、最後の慰めなのだ。別の言い方をすれば、破滅や死を甘美なものだと思い込むようになった人間を、我々は、依存症と呼んでいるのだ。

 とにかく、この状況から脱け出さないといけない。あの騒音の中で毎日朝の10時から夜の10時まで片時も休まずにタマを打っても、稼ぎは、1日平均にナラすと、せいぜい数千円にしかならない。つまり、あの馬鹿げた労働の対価は、時給千円にも届かないわけだ。なんとしても足を洗わないといけない。でないと、オレは本格的におしまいだ。

 パチンコ依存から立ち直るための第一歩がホームレスから始まるというのは、いかにも皮肉な話だ。オレらしいといえばオレらしい。

 20年前に隅田公園でホームレスの暮らしをはじめた時、健二は34歳だった。その生活に入る前までのしばらくの間、彼は、風林会館の裏手で客を引く男娼として生活を支えていた。急場しのぎの職業選択だったとはいえ、どうしてあんなことができたのだろう。とにかく、そこから脱け出すのには、あの3カ月間のホームレス生活が必要だった。一度、底まで落ちないと、這い上がることができない。これは、健二の持ち前の性分なのだろう。

 今また、健二は、ホームレスの生活に舞い戻ろうとしている。というのも、東京の不動産屋は、無職の人間に部屋を貸さないからだ。一方、マトモな勤め口は、住所不定の人間を雇わない。そして、銀行は、住所を持たない人間のために口座を開こうとせず、マトモな会社は、銀行口座を持っていない人間を相手にしない。この八方塞がりの状況を打開するためには、とにかくはっきりとした額の現金が要る。最低でも30万円。できれば100万円ぐらいは持っていないと、住所を定め、職業を確定して、社会の一員として再出発することはできない。

 で、そのカネを稼ぐための、住所不定でもできる仕事のために、健二は電話をかけようとしている。

 20年前のように解体工や建設現場の作業で、日銭を稼ぐことはできない。今の自分にはそれに耐えるだけの体力も気力も残っていない。こういう時には、やはり、昔の仲間に頼るしかない。

「健二です。ごぶさたしています」

「おお。健二か。顔を見せに来い」

 先方は、既に事情を察している。察するも何も、心底から困っているのでもない限り、電話をかけるはずのない関係であることは、お互いに先刻承知だ。

 なにしろ、その兄貴分には、殺される寸前のところまで行っている。昔の話ではあるが、古くなったからといって水に流せる話でもない。

「しばらく、外の空気を吸う気持ちはあるか?」

 おそらく、ロクでもない話だ。感触でわかる。

 が、断れない話でもある。中味を聞く前に引き受けなければならない。こっちから電話をしたということは、つまり、何を言われたのだとしても、こちらからは断れないということだ。

「はい」

 と、健二は答える。ホームレスの話は立ち消えになるかもしれない。おそらく、もっと悪い場所で暮らすことになる。健二は、静かに覚悟を固めている。

小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。


Recommended by logly
サイゾープレミア

2017年7月号

コーネリアスが語る沈黙の11年

コーネリアスが語る沈黙の11年
    • 【小山田圭吾】が語る音楽と息子

チラリと見える和モノ写真進化考

チラリと見える和モノ写真進化考
    • 一ノ瀬りと「私の全部」

インタビュー

連載