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小田嶋隆の「東京23話」【9】

【小田嶋隆】荒川区――山間部の限界集落にある実家から、妹が訪ねてきた男

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東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

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(絵/ジダオ)

 南千住に住み始めて3年になる。隅田川と鉄道の線路に切り取られた半島のようなこの場所は、東京でも有数のカオスだ。日雇い労務者の宿泊施設とソープ街がすぐそばで共存しているかと思えば、都電の沿線には昭和の木造家屋が奇跡的に生き残っている。国道沿いにはマンションが並び、隅田川が大きく迂回する突端の部分には、30階以上の超高層住宅からなる潮風団地が立地している。

 敏夫は、都市に残された谷間みたいなこの街に少しずつ愛着を抱きはじめている。街には、一定量の寂しさがないといけない、と、彼は考えている。 

 生まれたのは、山梨の山あいにある小さな村だ。いつだったか、ラジオにゲストとして出演していた大学教授が、日本で一番不便な場所は山梨県の谷間に折り畳まれているという話をしていたのを覚えている。オレの生まれた村はそういう場所だった。父親の話では昭和が終わるその年まで、村には電気が通っていなかったらしい。今でも、ガスは来ていない。上下水道もだ。携帯電話の電波が届くのかどうかは知らない。村を出てもう10年になる。以来、実家には一度も帰っていない。おそらく一生涯帰ることはないだろう。

 その、今では24世帯が暮らすだけの山間部の限界集落から、突然、客が訪ねてきた。

「お兄ちゃん?」

 と、アパートのドアを叩きながら、その声は、自分をその呼び名で呼んでいる。ということは、妹の愛美だろうか。オレが村を出た時、まだ小学3年生だったはずだが。

 ドアを開けると、愛美が立っている。髪の毛をほとんど金髪に近い色に染めている。何事だこれは。何が起こったっていうんだ?

「お兄ちゃんよね?」

 いったいこんな時間に何をしに来たんだ。

「あたし、行くとこなくて」

 事態がのみこめない。愛美は昔から変わったところのある子どもだったが、それにしても、行くところがないというのはどういうことだ? 学校はどうしたんだ? 両親に何かあったのか?

「とにかく中に入れてよ」

 愛美の話は簡単だった。妊娠して家にいられなくなったから東京に出てきたというのだ。

「……妊娠?」

「そう。わかる? ほら、5カ月だけど」

 わかるって何がだ? それよりおまえ、確かまだ高校3年生だったはずじゃないのか? 

「でさ。しばらくここに置いてほしいわけ。仕事が決まって住むところが落ち着くまで」

「……学校は?」

「やめた」

 やめたってお前、この先どうするんだ? それに妊娠って、そもそも父親は誰なんだ? そいつはどこにいるんだ? 知らん顔なのか?

「かまわないでしょ?」

 胸の奥底からわきあがってくる質問を、敏夫はほとんどまったく口に出すことができない。無口なのは生まれつきだが、東京でひとり暮らしをはじめて以来ますます口が重くなっている。

「ところで、お兄ちゃん、トシとったね」

 その日から、愛美は、敏夫の住む二間のマンションの8畳間とベッドを専有することになった。

「だって、お兄ちゃんは仕事から帰って寝るだけだけど、あたしは一日中ここで暮らすわけだし」

 という愛美の主張を退けることのできなかった敏夫は、その日から、3畳ほどの広さのフローリングのキッチンに寝袋を出して寝ている。

 半月ほどして、元浅草のスナックに働き口を見つけてきた愛美は、午前3時頃に帰宅して、午後5時過ぎに出勤するスケジュールで暮らすようになり、敏夫とはほとんど顔を合わせないようになった。

 そうこうするうちに、お腹が目立ってくる。

「どうしてここがわかったんだ?」

 と、ある日、敏夫は問い質した。実家の両親も知らないはずのこのアパートの住所を愛美に教えた男こそが、愛美のお腹の子の父親であるに違いないと考えたからだ。

「ここって、このマンションのことなら、教えてくれたのはカズって人だよ。知ってるでしょ?」

 知っている。高校の同級生で、東京に一緒に出てきた時の仲間だ。ただ、実家は山梨でも都市部の方で、愛美とは何の接点もないはずだ。

「どうしてカズを知ってる」

「名簿をたどって電話したの。名前知ってたから」

「そのお腹の子は、カズの子か?」

「何言ってんのよ。ホントになにも知らないのね。あの人はヒロミっていう人と結婚して今は甲府で暮らしてて子どもだって2人もいるんだよ」

 ……ヒロミの名前を聞いて、敏夫は不意を突かれた。というのも、敏夫が東京に来たのは、もともとヒロミに誘われたことがきっかけだったからだ。

「ねえ、こんなとこにいてもしょうがないじゃん。あたしは東京の専門学校に行くから、あんたも仕事見つけるなりして一緒に東京行こうよ」

 という彼女の言葉が、敏夫には、真剣な告白に聞こえた。で、彼自身は、てっきり東京でヒロミと一緒に暮らすつもりでいたのだ。 

 ところが、敏夫が両親と大喧嘩をした末にほとんど家出同然の状態で東京に飛び出してきてみると、ヒロミはすでに大塚の伯父の家で暮らしていた。

 勘違いと言ってしまえばそれまでだが、敏夫には、他人の言葉を文字通りに受け止めてしまう、どうにも融通のきかない一面があって、そのために、最初の職場でもさんざんトラブルに巻き込まれた。

 でなくても、彼は、不器用な男だった。

 妊娠9カ月を過ぎると、愛美はどこへともなく姿を消した。ある日、勤め先のスナックに出かけたまま帰らず、心配になって問い合わせてみると、スナックにも出勤していなかった。

 3カ月後、愛美は、生後2カ月の男の子を抱いて戻ってきた。

「父親のところに行ったんじゃなかったのか」

 と、敏夫が言うと、愛美は

「そんなわけないじゃん。死んでるのに」

 と言った。

「死んでる?」

「そう。死んだのよ。この子の父親は」

 本当だろうか。そもそも、妹の話は、どこからどこまでが信用できる情報なのだろうか。

 翌週の日曜日、赤ん坊を部屋に残したまま、愛美は再び姿を消した。

 じきに帰ってくるだろうという、敏夫の希望的観測は、毎日、朝が来る度に否定された。

 2週間ほどして、赤ん坊の世話に疲れ切った敏夫は、甲府にあるカズの実家に電話をかけた。電話に出た母親によれば、カズがヒロミと結婚して暮らしているという話はウソで、カズは、2週間前に東京に出かけたきり帰ってきていないという。

 いったい何が本当で、誰の話のどの部分がウソなのだろう。敏夫にはそれを判断する材料が見つからない。万策尽きて、いよいよ10年間帰っていない実家を頼るしかなかろう、と電話をかけようとしたその時、インターフォンが鳴った。

「愛美か?」

 と言いながらドアを開けると、不思議なことに、玄関に立っているのはヒロミだった。

「カズと愛美のこと聞いたよ。もしかして赤ん坊かかえて困ってるんじゃないかと思って」

 どうしてヒロミが、愛美とカズのことを知っているのだろう。そして、どうやってオレの住まいの住所を探り当てたのだろうか。

「事情を話すと長くなるけどね」

 と前置きをしてからヒロミがたっぷり2時間ほどかけて語った話は、バカみたいに錯綜した話だった。ヒロミとカズが夫婦だったのは本当で、でも2年前に子どもができないまま離婚して、その離婚の原因というのが、愛美とカズの不倫だというのだ。

「赤ん坊、どうする?」

 という敏夫の言葉に対するヒロミの返事は、思いがけないものだった。

「あたしがなんとかする。かまわなければここで」

「……え?」

 敏夫はまだ事態がのみこめていない。

小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

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