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小田嶋隆の「東京23話」【8】

【小田嶋隆】千代田区――ある男の内縁の妻だったある女の話

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東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

【小田嶋隆】千代田区――ある男の内縁の妻だったある女の話の画像1
(絵/ジダオ)

 皇居の外周をひと周りする道路は、一周するとちょうど5キロほどの距離になる。静子は、その、夕方には必ずジョギングをするランナーでにぎわう舗道を、反時計回りに、千鳥ヶ淵から半蔵門に向かって歩いている。まだ走ることはできない、というのも、彼女は半年前に脛骨を骨折して、現在はリハビリ中の身だからだ。骨折した時のことは、半分ぐらいしか覚えていない。足を折る直前まで、彼女は、江戸川区にある賃貸のアパートで、男と暮らしていた。その男に殴られて、気を失うところまでの記憶は、比較的はっきりと頭に残っている。

 ひどい男だった。いや、そんなことはない。一緒に暮らした4年間のほとんどの時間、健二は、おとなしい人間だった。その、おだやかんで、我慢強い、いつも何かにおびえているように見える借りてきた猫みたいな細身の中年男を、あんなふうに怒らせてしまったのは自分だ。彼女は、健二の痛いところを突いたのだ。いつもそうだ。自分は、大切な人間の弱点を繰り返し攻撃せずにはおれない。なぜなのかはわからない。が、ともあれ、その報いとして、静子の左の頬には、白く光る傷跡が残されている。笑うと、縫合した皮膚に少し引き攣れたような皺が寄る。その皮膚の表面に浮かぶ小さな乱れは、本来美しく整った彼女の顔に、いまも、どことなく油断のならない表情を刻んでいる。

「そういえば」

 と、彼女は思う。

「あたしに友だちができないのは、この傷のせいなのかもしれない」

 が、事実は違っている。傷ができるずっと以前から、彼女には、友だちがいなかった。

 健二に殴られて気を失った静子は、彼がその場から逃走した後に意識を取り戻したものらしい。ブラックアウトしていたのは、健二が匿名で通報した救急車が到着した時間から逆算するに、おそらく3分間ほどだったはずだ。その3分間の空白の後、彼女は壁伝いに立ち上がり、住んでいたアパートの玄関を飛び出して、そのまま古い木造モルタル造りの建物外壁にしつらえられた鉄製の階段から転げ落ちたのである。

「大丈夫ですか?」

 と彼女を助け起こしたのは、ちょうど駆けつけた若い救急隊員だった。

「何言ってんの? 大丈夫じゃないからあんたがここに来ているんじゃないの?」

 静子の啖呵に、救急隊員は戸惑っている。

「大丈夫そうですね。とにかく病院に行きましょう」

「バカじゃないのあんた? あたしのどこが大丈夫だって言うわけ? 真面目に仕事する気あるの?」

「わかりました。とにかく、いまストレッチャーを持ってきますのでここを動かないでください」

 診察の結果は、頬骨の陥没骨折および、脛骨の亀裂骨折だった。そのまま緊急入院で全治3カ月。顔の傷は、2日後に患部の内出血と腫れが一段落した時点で縫合した。以来、健二には会っていない。病院に面会にやってきた警察官とかなり長い時間押し問答をしたが、被害届は出さなかった。

「いいですか奥さん。医者は、顔の傷と足の骨折は別の原因によるものだと言っています。顔の傷は、明らかに殴打によってできた外傷です。それも、複数回の強度な暴力を暗示するものです。いいですか奥さん、ここで被害届をださないと、あなたは現在の状況から逃れられません。報復を恐れる気持ちはわかります。しかし、奥さんの安全は我々が全力で守ります。どうかご協力ください。奥さん自身のためです。誰に殴打されたのか、誰が暴力をふるったのか、その名前を証言してください」

「あんたさっきから奥さん奥さんって言ってるけど、あたしは誰の奥さんでもないよ」

「それは、失礼しました」

「それから、顔の傷はあたしが自分で階段から落ちて作った自家製のオリジナルだからね」

 警察官は、最後まで礼儀正しかった。が、後を引き継いでやってきた組織暴力対策本部の捜査員は、いきなり健二の顔写真を見せてこう言った。

「こいつが殴ったことはわかってる。居場所もだいたいアタリはついている。あんたが書類にハンコをついてくれれば良い。あとは万事こっちでなんとかする。だからここにハンコを押してほしい。持ってないんなら拇印でもかまわない。おっぱいじゃないぞ拇印だ拇印。ははは」

「何の話ですか?」

「ナニもカニもないよ。あんたが協力しないと捜査できないんだし、言っとくけど、階段から落ちましたみたいな間抜けな話で保険がおりると思ってるんなら大間違いだよ」

「保険にははいってません」

「ははは。そりゃそうだ。暴力団準構成員の内縁の妻じゃ、保険会社もあんまり良い顔はしないはずだ」

「ケンカを売りにきたんですか?」

「とにかく本人が見つかったら、また来ます。本人というか犯人というか。その時は書類を書いてもらうことになるよ。お大事に」

ところが、そのマル暴の刑事は、それっきり二度と現れなかった。ということは、健二は、無事に逃げおおせているということなのだろう。

 半蔵門の交差点を麹町方面に折れて、静子は指定されたホテルのコーヒーラウンジに入った。

「お待ちしていました」

 思いのほか若い身だしなみの良い男が、深々と頭を下げている。

「どちらさまでしょうか」

「申し遅れました。私は、健二さんに世話になっている若い者です」

 なるほど、変に礼儀正しい仕草といい、不相応にカネのかかった身なりといい、要するにその方面の世界の人間だということなのだろう。自分を「若い者」と呼んでナマを名乗らない態度はいささか芝居がかってはいるが、もともとやくざものというのは芝居がかった連中だ。というよりも、そもそも彼らの人生ははじめから芝居なのだ。

「健二と関係のある話?」

「はい。これを預かってきました」

 若い男は、そう言って紫色の風呂敷に包まれた四角い形のものを背広の内ポケットから取り出した。おそらく中身は銀行の封筒で、封筒の中には現金が入っている。健二はやくざには珍しく芝居がかったことの嫌いな男だったが、やはりこういう時にはリキんでしまうもののようだ。それとも、この風呂敷の演出は若い男の才覚なのだろうか。

「お金?」

「私は中身を知らされていません」

 知らないはずがないじゃない。バカじゃないの? と静子は思う。口には出さないが、強くそう思っている。この若い男はなんのつもりで格好をつけているんだろう。チンピラのくせに。

「ありがとう」

 自然に態度が大きくなる。自分の連れ合いの舎弟格の男に対しては、どうしてもそういうふうに振る舞ってしまう。私はやくざは大嫌いだし、やくざの社会のマナーにもしきたりにもひとっかけらも共感できないけれど、どうしてなのか、このサル山じみた上下関係にだけはどうしても抵抗することができない。兄貴分にはへりくだってしまうし、若い者には高飛車になってしまう。

「お手数ですが、この受け取りにご署名をお願いいたします」

 受け取り? 健二がそんなことをするかしら? そう思うと急に静子は不信感に襲われた。健二にこんな身なりの良い舎弟がいるのも不自然な話だし、なによりあの男がこんな厚みのある銀行の封筒を持ってこさせるほど金回りが良いとは思えない。なにしろ私たちは、つい半年前まで、親子3人で家賃6万の木造アパートに住んでいたのだから。

 封筒の中味は300万円の現金だった。

「あの人何をしたの?」

「自分の気持ちだと伝えるように言われています」

「ふざけないでよ」

 もう一度深々と礼をすると、若い男は、すばやく伝票を拾い上げて立ち上がった。

「何カッコつけてんのよ」

 彼女のやや芝居がかった叫び声は、午後のラウンジに空しく反響して、やがてすすり泣きに変わった。

小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

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