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第1特集
「おら東京さ行ぐだ」から丸30年

「テレビもねえ! ラジオもねえ!」貧困、借金、歌――【吉幾三】が見てきた景色

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――我が国日本が誇るべき演歌歌手、吉幾三。ニコニコ動画における“マッシュアップ素材”という現代的なムーブメントのもと、再び注目を集めることとなった永遠のクラシックソング「俺ら東京さ行ぐだ」。青森の片田舎から上京し、東京で成功をつかむまでの物語を、幾三に聞く。

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(写真/有高唯之)

 今からさかのぼること30年前の1984年、吉幾三が発表したシングル「俺ら東京さ行ぐだ」は、多くの人が抱える東京への憧憬と、自らの故郷の退屈さをラップ調でコミカルに嘆き、空前の大ヒットを記録した。今なお世代を越えて愛され続ける理由には、ニコニコ動画でマッシュアップの餌食になったことと、地方に住んでいる人にとって、東京は”夢を叶える場所”という思いが今も変わらないということが挙げられるかもしれない。青森県の田舎町・金木町(現・五所川原市)から歌手を目指して上京し、「紅白歌合戦」に出場するという夢を叶えた吉幾三。「俺ら東京さ行ぐだ」のリリースから丸30年が経過した今、彼にとっての”東京”を聞くべく、都内某スタジオを直撃した。

上京を決意したのは紅白への出場を果たすため

――吉さんが上京されたのは、中学卒業後の15歳の頃です。当時、歌手になるために上京するというのは相当の決意が必要だったのでは?

吉 幾三(以下、) そりゃあ、心細かったよ。不安しかなかったね。学生服を着て、ギターとバッグだけ持って夜行列車に乗ったんだ。一緒に乗車しているのは、出稼ぎに行くおっちゃんばかりでさ。酒とスルメのにおいにまみれていて、みんな床に新聞紙を敷いて座りながらワイワイやってる中で、15歳の子どもなんて僕だけだったから。歌手になりたくて東京を目指したわけだけど、親父は大反対でね。親父がプロの民謡歌手だったこともあり、プロになる厳しさを知っていただろうし、「もう二度と家の敷居をまたぐな!」って、ほぼ勘当状態で、駅に見送りにも来てくれなかった。

――当時から「歌手になるためには、東京という街じゃなきゃダメだ」という思いがあったのでしょうか?

 それだと語弊があるな。歌手になるためには東京に行くしかなかったんだ。当時、東京に嫁いだ姉が「音楽の勉強がしたいなら東京に来なさい」って言ってくれたんだけど、どうすれば歌手になれるのか、まったく情報がない時代だから、俺が頼れるのはそれしかなかったんだ。

――それだけ歌手になりたい気持ちが強かったということですか?

 気持ちではなくて、お金を稼ぐ手段だったんだよ。歌を聴いてもらいたいとか、スターになりたいって感情じゃないんだな。ただただ実家が貧しくてさ。俺ができることは歌しかないと思っていたから、お金を稼ぐ唯一の手段が”歌手”っていう職業だったんだよ。そして『紅白歌合戦』に出ること。自分が食べる手段と家族を幸せにする手段は、これしか思いつかなかった。

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