サイゾーpremium  > 連載  > 小原真史の「写真時評 ~モンタージュ 過去×現在~」  >  写真時評~モンタージュ 現在×過去~【23】
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写真時評~モンタージュ 現在×過去~

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「第一回遣欧使節団」(ナダール撮影/制作:1862年、プリント:1988年/東京都写真美術館蔵)

 1861年、幕府は欧州諸国に対して開港・開市の延期交渉を行うために第一回遣欧使節団(文久使節団)を送った。翌年3月にフランス入りした一行は、滞在していたパリのホテルとキャプシーヌ大通りにあったナダールの写真館で記念写真を撮影している。当時の写真館は書き割りの背景画や社会的地位を表すような装飾を使うのが一般的であったが、ナダールの肖像写真の特徴はそうした装飾を排し、無地の布を背景に柔らかい光で撮影することでモデルの個性を浮かび上がらせるというものであった。リラックスした様子で写る使節団一行の写真がいくつか残されている。

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「第一回遣欧使節団」(ナダール撮影/制作:1862年、プリント:1988年/東京都写真美術館蔵)

 彼らの写真はパリの自然史博物館に所属していたフィリップ・ポトーの手でも撮影されている。福沢は1860年に訪れたアメリカでも写真撮影の経験があったためか、ほかの団員たちよりも幾分かこなれた様子で、口元にうっすらとほほえみを浮かべて写っているように見える。この撮影を行ったポトーが、博物館内の植物園・ジャルダン・デ・プラント内に作られたスタジオでさまざまな人種を記録する「人類学コレクション」の収集を行っていた博物学者であったことを考慮するならば、正面像を撮影される場合の「正解」は、無表情で写ることであったかもしれない。ナダールの写真館と同じ無地の布の前での撮影であったが、それはモデルの個性や内面を写し込むためのものではなく、その外見を正確にトレースするための方法であった。ポトーの手法は、骨格形質の測定のために正面からと側面からの2度、半身像で撮影するというものであった(福沢は眼を伏せた様子も撮影されている)。逮捕時に身長計の前で撮影される「マグショット」のような形式である。使節団一行の中には正面のほかに横顔まで撮ってくれたので、親切なことと喜んでいた者もいたようであるが、彼らが写った2枚組の写真は、旅先での記念写真でもなく、肖像写真でもなく、人類学の標本として撮影されたものであった。ポトーの知見が添えられた写真は、博物館内で販売されることもあったという。後に日清戦争を「文明と野蛮の戦争」と表現する福沢が、幕末期に「野蛮」や「未開」の側として西洋人のカメラに収まっていたことになる。

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