サイゾーpremium  > 特集  > 宗教  > 栄光は神の力で君に輝く? 【高校野球】と宗教

──PL学園、天理、創価、智辯和歌山……高校球児の夢の舞台・甲子園の古豪には、宗教団体が運営する学校法人が少なからず存在してきた。高校野球と宗教の根深き歴史を振り返りながら、近年、宗教系高校の甲子園での活躍が減りつつある現状を検証する。

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『PL学園OBはなぜプロ野球で成功するのか?』(新潮社)

 2013年プロ野球ペナント終盤、ヤクルトスワローズの宮本慎也が引退を発表した。19年間ヤクルト一筋だったベテランの引退セレモニーは10月4日に本拠地・神宮球場で行われ、対戦相手の阪神からは福留孝介が花束を贈呈。球場には引退試合を見守るべく、球界OBの清原和博(元巨人ほか)、立浪和義(元中日)、片岡篤史(元日ハムほか)、野村弘樹(元横浜)が訪れた。

 少し野球に詳しい人ならわかるだろうが、ここに挙げた人物たちには共通点がある。それは、全員がPL学園出身だということだ。PL学園は、春夏通算37回の甲子園出場を果たした高校野球の強豪校。そして、大阪に本部を構えるパーフェクトリバティー教団(PL教団)が運営する宗教系の高校である。

 PL学園をはじめ、甲子園の常連校に宗教法人が運営する高校が多いことは高校野球ファンの間でよく知られている。天理高校(天理教)、智辯和歌山・智辯学園(辯天宗)、修徳高校(天理教)、創価学園(創価学会)、常連とはいえないまでも複数回出場を果たしている関西創価(創価学会)、佼成学園(立正佼成会)、大阪金光(金光教)など、数え上げるとかなりの数が存在している。あるいは、こうした新宗教以外にも、カトリック系の光星学院や桜美林高校、仏教系の成田高校や上宮高校など、伝統宗教の学校ももちろん多数ある。

 新宗教系の高校出身選手がプロに入ると、よく話題になるのが「あの選手は出身校の教団の信者なのか?」という点だ。そしてそれは実際のところ、「そうであることもあるし、そうでないこともある」としか言いようがないほどバラついている。例えばPL学園といえば清原と桑田真澄(元巨人)のKKコンビがつとに有名だが、もともと家族揃ってPL信者であり、プロ入り後も渋谷のPL教会に通っていた桑田に対し、清原は高校進学時、天理高校と迷った末にPLに入学している。当初は天理高校への入学を考えており、一時母親はそのために天理教に入信、PLへ入学が決まった後に即脱退したというエピソードは、これまでもたびたび清原の自伝やインタビューで語られてきた。

 本稿ではそうした選手たち自身の信仰心を云々するつもりはない。強豪高校ともなれば、全国から野球留学してくる生徒が多数いる。プロの世界を目指し、15歳で親元を離れて入学してくる生徒たちにとって、重要なのは信仰の有無よりも甲子園に出られるか、活躍の爪痕を残して将来への足がかりを作れるかどうか。むしろここでは、そうして優秀な選手を集めている教団側が、どのように高校野球に携わっているかを見ていこう。

KKコンビ活躍の裏にPL教主の名采配あり!?

 日本の新宗教の中でも最大規模を誇る創価学会は、東京の創価学園と大阪の関西創価学園の2つの高校を運営している。創価学園は春夏通算8回の出場、関西創価は春に1度の出場だ。創価高校が初めて甲子園に出場したのは83年の夏。その後プロ入りし、近鉄バファローズ等で活躍したピッチャー・小野和義をエースに擁し、創部12年目にして西東京大会を制した。創価学会において重要なキーワードである「勝利」を果たした彼らをたたえ、機関誌「聖教グラフ」では「おめでとう! 創価ナイン」と銘打った見開きカラー写真を掲載。10ページにわたって予選大会のハイライトを特集している。なかには練習風景の写真に「泥にまみれて培う 負けじ魂」というキャッチも。この言葉が、池田大作名誉会長が作詞した創価学園の愛唱歌「負けじ魂ここにあり」から選ばれていることは間違いない。

 創価学会の特徴のひとつに、他の宗教を「邪宗」と呼び、批判・断罪する点がある。特に戦後間もない1950年代には、2代会長・戸田城聖の号令のもと、「折伏大行進」と呼ばれる大々的な勧誘運動を行い、その過程では他宗派の仏壇や神棚を破壊するなどの過激な動きまであったほどだ。その創価学会の教育機関である創価学園が、甲子園の初戦で対決したのは京都・東山高校。同校は浄土宗総本山・知恩院の学校法人佛教教育学園が運営する仏教系の高校である。まさに“邪宗”なわけだが、甲子園のアルプススタンドでは、東山高校の応援団とエールを送りあうなど、教義と野球は別物、という姿勢を見せた。結果は2対0で東山高校の勝利。翌日の聖教新聞には、「創価高、ご苦労様」という和やかな見出しで初戦敗退を報じる記事が掲載された。

 98年春のセンバツに出場した創価学園は、今度は2回戦でPL学園と対決。この年は創価学園創立30周年に当たり、出場が決まると池田大作も「創価学園野球部の甲子園出場を祝福したい」と聖教新聞で発言するなど、気合が入っていた。試合になると、青・赤・黄の3色旗を持った応援団がスタンドを埋め尽くし、関西に本拠地を持つPLに負けず劣らずの応援を展開したことが当時の週刊誌等で報じられている。ただし結果は、9対0という圧倒的なスコアで創価学園の敗北。またしても邪宗を退けることはできなかった。

 そのPL学園で、98年当時エースを張っていたのが現日本テレビアナウンサー・上重聡だ。史上5校目の春夏連覇がかかったこのセンバツでは、準決勝で松坂大輔擁する横浜高校と対戦し敗退。同年夏の甲子園決勝で再び横浜高校とまみえ、延長17回の末に敗れ去った一連の対戦は、近年の高校野球の中でも語り草となっている。

 PL学園は「神に依る全員野球」を掲げ、数々の劇的な名勝負をものにしてきた。KKコンビ在籍時の83~85年5大会連続出場は堂々たる記録だが、教団側が最も盛り上がったのは清原・桑田が1年時の83年夏大会優勝時。KKコンビが3年時の夏に甲子園優勝を果たしたときには機関誌「PL」(芸術生活社)で3ページ程度の記事が掲載されたのみだったが、83年夏優勝後の同誌10月号ではカラー7ページ、モノクロ4ページという大々的な特集を組んでいる。実はこの年は、PL教団第3代教主(おしえや)・御木貴日止(みきたかひと)の継承年。教団にとっては大きな節目に当たる年だったわけで、1年生ながら清原が決勝でかっ飛ばした甲子園初本塁打は、教団にとっても祝砲の一発になったことだろう。

 カラーページの中には、貴日止教主がスタンドで応援する写真も掲載された。コーチ陣は同誌で「上位打線が当たらないときは下位打線が打つというような、神業があった」と大会を振り返っている。

「大会が進むにつれて、選手たちは自らベンチの中ですすんで遂断(しき)るようになった。そうしたことが、この結果につながったことと思う」(「PL」10月号)

 ここで「遂断る」というのは、手を胸に当てて頭を下げ、「おやしきり(祖遂断)」の5文字を唱えるというPL教独特の祈りのことを指す。PL教団の敷地内に立地し、日頃から授業や寮生活の中で献身(みささげ)(徳を積む行い)が奨励され、試合時にはアミュレットと呼ばれるお守りを胸に下げて臨む彼らにとって、そうした行いは信者であるなしに関わらず自然なことだったのだろう。この環境で鍛えあげられた高校生たちの中から、77~01年まで途切れることなくプロ入りする選手が生まれてきた。PL学園野球部を80年から98年まで率いた名将・中村順司監督は、自著『甲子園最高勝率』(ベースボール・マガジン社新書)で、

「同じ宗教系の学校である智弁和歌山を率いる高嶋仁監督と対談したときに、『徳を積むと結果につながる』と意見が合いました。科学では証明できない真実が、そこに含まれていると思いますね」

と語っている。

 中村監督は自身もPL学園の出身。KKコンビの1年生時、彼らをレギュラーに登録するかどうか思い悩んで、教主のもとに教えを乞いに行ったエピソードが残されている。朝日放送アナウンサー・「甲子園は清原のためにあるのか!」の名実況で知られる植草貞夫の『球児たちよ永遠に PL学園野球、その強さの秘密』(芸術生活社)を引用してみよう。

「教主は中村監督に『妥協することなく、あなたの思った通り、実力本位のメンバーを選んで大阪大会に臨みなさい(中略)』とアドバイスを与えた。(中略)若き教主に教えられて、迷いを断ち切った中村監督は、一年生をメンバーに加えて五十八年【引用者注:83年】夏の大阪大会に出場した」

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