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批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。

[批評家]宇野常寛×[文芸批評家]福嶋亮大

 90年代カルチャー史に屹立するアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』。その再構築作品『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は、07年から始まった。最初は『序』、そして09年に第2作『破』が公開され、3年経った今冬、3作目となる『Q』が公開中だ。新しい設定と展開でファンを驚かせた本作は、批評においてはどう語られるのか?

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『Q』冒頭映像より。アスカは本作ではいきなり眼帯をつけ、改造された2号機に乗って登場。一方、カヲルは外見上は、「旧エヴァ」シリーズから大きく変化はない様子。

宇野 僕はこれまでの『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(以下「新ヱヴァ」)シリーズの2作(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』以下『序』【1】、『エヴァンゲリオン新劇場版:破』以下『破』【2】)と『Q』なら、本作が一番楽しめました。もちろん、これはあくまで相対的な評価ですよ(笑)。『序』は事実上のテレビ版の再編集にすぎないので置いておくとして、『破』は公式による二次創作としては頑張っていて、『新世紀エヴァンゲリオン』(以下「旧エヴァ」)が好きな人には楽しかったと思う。でも僕は「旧エヴァ」シリーズ【3】にそこまで思い入れがない。だから本作では、ようやく新しい物語が始まっていて、初めて興味が持てた。それをどう評価するか、はまた別問題だけど。

福嶋 確かに新しいステージに行こうとしてましたね。個人的には、良くも悪くも、これまでのシリーズが持っていた豊かさを全部かなぐり捨てている感じを受けました。この貧しさが完結編で全てプラスの方向に転換すればいいんでしょうけど、果たしてどうなるか。

 今回『Q』を見て思ったのは、旧作の豊かさを担保していたのは結局ネルフ【4】だったんだなということです。ネルフはいろんなリビドーが飛び交う、陰謀と欲望の場ですよね。例えば加持リョウジ【5】を中心とした二股三股の恋愛劇とか、母をめぐる近親相姦とか、「エヴァの保有数には制限があって」云々っていう嘘くさい国際政治的要素とかが、ネルフという場を介して表出する。で、登場人物も皆リビドーの渦で引き裂かれている。それが『Q』ではネルフ本部は壊滅し、複雑なリビドーは雲散霧消してしまって、すべてが碇シンジ【6】渚カヲル【7】の単純なBLに収斂してしまった。そのへんは極めて現代風だなと思います。

宇野 ネルフが「旧エヴァ」の90年代的メンタリティの象徴だとしたら、ヴィレ【8】は明らかにゼロ年代以降的で、その構図は男社会と女社会との対比ともいえます。つまり、「革命を失った僕たちはどうすればいいんだ」という20世紀後半的な男性性の不安が、ファミリー・ロマンス的な物語の根底にある。それが碇ゲンドウ【9】の「補完計画」であり、シンジが綾波に抱く欲望として反復されている。マッチョイズムを実現するために母=娘的な女性を常に必要としている、という構図ですね。しかしこれって考えてみれば、社会がリベラル化したことで男社会が差別的に確保していた既得権益を失って動揺しているだけで、今日において中心的な主題にするには弱い。これがネルフの空洞化でしょう。そしてその代替物として、本作では、BL=同性愛的文脈が発生する。他方、ヴィレは完全な女社会で、皆で頑張って空を飛んでいるんだけど、皆やたらと刺々しい。庵野監督が現代をどう理解しているかよくわかる。で、この『Q』では「もうネルフは信じられないけど、ヴィレにもついていけない」シンジが描かれて、完結編では「弁証法的に、だから第三の道をシンジが体現する」展開を想定しているんでしょう。でもまあ、こんなことをやるなら『序』からヴィレの話をやればよかったと思うんですよね。ネルフ的なものは、もはや仮想敵としても弱いし。どうにかネルフ的なものを延命しようとして導入してきたBL要素に対して、庵野秀明自身があまり理解が深くないということも画面から伝わってきてしまう。それゆえドラマとしても、明らかに中盤のBLパートで停滞してしまっている。

福嶋 そもそもBLをやりたいという欲望が、全然伝わってこなかったですからね。本作はシリーズの流れからすると確かに冒険的ですが、作品の内容自体はむしろ時代性の枠の中にきっちりと収まってしまっている。ネルフ対ヴィレって、現代の図式でいうとBL対AKB48ということでしょう。でも、庵野監督本人に思い入れがない流行りものを空気を無理やり読んで取り入れてる感じが否めない。その結果、ちぐはぐな感じを引き寄せてるのではないかと。

宇野 BL的なものもAKB的なものも、まるで本質が掴めていないことが逆に伝わってきちゃっているからね。本当に現代的な女子社会としてのAKB=ヴィレを描くのであれば、単に刺々しいだけじゃなくて、もっと山ほど描くべき要素があったはずなんだよ。それはBLも同じ。中途半端だから裏目に出てしまった。作品を通して「庵野秀明からはBLやAKBがこう見えてるんだ、やっぱりさすがだな」とは思えない。AKBに思い入れがないのであれば、逆にヴィレ的な要素を全部切って、ネルフを通してファミリー・ロマンスをどう回復するのかの物語を描く方向に舵を切って、「あんなもの俺は嫌いだ」ということを全力で訴える方法もあったはず。

 そもそも、戦後とポスト戦後を男社会と女社会の対比にするっていう発想自体がどうなんだろう。創作だから間違った理解こそを強いコンセプトとして打ち出すほうがむしろ面白かったりするものだけど、一応言っておくと『ダークナイト・ライジング』もそうですが、ファミリー・ロマンスとの対比で、そこから解放された新しい世界を描くのなら、世界をもっと匿名的なものとして描くほうが正確ではあるでしょう。「近代社会において人間未満の存在として扱われていた女性的なものに、逆説的にポストモダンを見出す」って、すごく20世紀的なセンスだと思うけど。

福嶋 ええ。女社会の描き方はイマイチでしたね。というか、全体的に組織の描き方がちょっと健全すぎる感じがする。『Q』のちゃぶ台返しぶりが「旧エヴァ」っぽい、という意見もありますが、僕からすると旧作の良さはあまり出ていないと思うんですよ。「旧エヴァ」は「セカイ系」の元祖ということになっているけど、基本的には賑やかなアニメでしょう。一寸先は闇の過酷な世界なのに、登場人物たちの謎のリビドーが混線しまくっていて、近親相姦も二股もあり。それが一番活気のあったところだと思うんです。それが今回、ヴィレは「地球を守るんだ」という一つの目標に向かって健全に頑張るだけだし、ネルフはネルフで全て碇ゲンドウ個人のイデオロギーに支配されていて、どちらもすっかり一元化されているんですよね。例えば『破』だと加持が陰の主役みたいになっていて、彼が媒介になってエヴァのパイロットたちを皆リア充化した、つまりリビドーをプラスに昇華したわけですよね。しかし今作ではもはや加持も出てこないし、そもそもリビドーの混乱がない。ネルフ元来のいかがわしさや良い意味での「古臭さ」がなくなって、清潔で健全なアニメになっている。

 ただ、そもそも「旧エヴァ」には、パラレルワールド的なものもBLも災害後の世界も一応全部入っていたじゃないですか。ところが放映から10数年が経って、それらがあまりにも使い尽くされて陳腐化してしまったので、何をやっても結局自己言及に見えてしまう。そこはちょっと気の毒ではあります。『破』だとまだ『太陽を盗んだ男』【10】や『ウルトラマン』の引用があったけど、『Q』になるともう『ふしぎの海のナディア』【11】のセルフパロディでしょう。もともとエヴァってゲリラ的な作品で、別に強固なテーマはないんですよ。「自分はサンプリングしかできないけれど、そのサンプリングの強度と速度で面白いものを作る」という開き直りが庵野監督のスタイルであり、肉声だった。でも今作ではそういう豊かさをあえて全部捨てて、自己言及の貧しさにいっている。時代と頑張って繋がろうとしながら、むしろ作品としては(ちょっと気の毒ではあるにせよ)内向的な方向に閉じてしまった。

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