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宇野常寛の批評のブルーオーシャン 第28回

『ヘルタースケルター』と「あの頃」の消費社会

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──既得権益がはびこり、レッドオーシャンが広がる批評界よ、さようなら!ジェノサイズの後にひらける、新世界がここにある!

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『ヘルタースケルター 映画・原作 公式ガイドブック』

 映画『ヘルタースケルター』を観た。本作は、基本的には沢尻エリカという「変人」を観るための映画だ。ヒロインと沢尻のスキャンダラスな人生を重ね合わせ、そのユニークなキャラクターの魅力を強調する。私見では、蜷川実花はこの「最低限の仕事」はできている。しかし全体的に練り込みが甘い。沢尻を見せるためだけの映画なのだから、尺はこの半分でよかったはず。中途半端に映画への意志を見せているせいで、冗長な映像体験になってしまっているのだ。

 さて、それとは別に僕が考えたのは、この原作を今映像化するなら、他にどんな手があるだろうか、ということと、ひいてはバブル前後の消費社会観が今日の情報環境下でどれくらいの射程を持っているか、ということだ。例えば岡崎京子の原作は基本的に「マスメディアが世間を作っていた時代」の極相=80~90年代前半の消費社会観に基づいているが、これは今日の情報環境ではほぼ通用しない。マスメディアがイメージを作り上げ、それを消費者が享受する「偽物に溢れた世界」——しかし単純な話、今日において情報の発信者はマスメディアだけではない。誰もが(ソーシャルメディアを通して)情報を発信できる時代、発信者と受信者の境界は曖昧だ。テレビも雑誌も広告も、基本的には斜陽産業。NHKがどれほど嗄れた声をあげてもマスメディアが社会を一つにまとめることはできないし、代理店的手法はどんどん「効かなく」なっている。

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