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「生きた"小さなメディア"を作れ」

若手評論家が語る「新聞・雑誌の死後」

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──肥大化するコミックマーケット、会場を移して規模を拡大した文学フリマ、そして人々の生活に浸透しきったブログ......。90年代以降、個人が自身の作品や意見を発表する場(メディア)は、劇的に増加した。その一方で、それまでプロとしてその作業を行ってきたテレビ局・新聞社・出版社といった老舗メディアは今、急速に弱体化している。はたしてこの"メディア乱世"をサヴァイブできるのは、一体どんなメディアなのだろうか?

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宇野氏の「PLANETS vo.l6 お笑い批評宣言」(右)、荻上氏が編纂した『日本を変える「知」』(左)

 近頃、30歳前後の若手批評家たちがメディアへ登場する機会が増えた。本誌連載陣でもある宇野常寛氏と、『ウェブ炎上』(ちくま新書)などの著書を持つ荻上チキ氏は、その代表格ともいえる2人である。

 彼らには、いくつかの共通項がある。ひとつには、それぞれインディペンデント・メディアを自ら運営していること。宇野氏は自身が主宰する企画ユニット「第二次惑星開発委員会」からミニコミ誌「PLANETS」を発行しているし、荻上氏は人文系ニュースサイト「トラカレ!」を運営するほか、批評グループ「シノドス」が発行するメールマガジン「αシノドス」の監修も行っている。形態こそ雑誌とウェブで異なるが、どちらもメディア関係者をはじめ、広く注目を集めている。

 そしてもうひとつは、本誌創刊編集長で4月に『新世紀メディア論――新聞・雑誌が死ぬ前に』(バジリコ)を上梓した小林弘人氏(通称こばへん)の薫陶を深く受けていることだ。同書のタイトルにあるように、新聞・雑誌メディアが死に体となりつつある今、その向こうにあるべき"メディアのこれから"とは一体どのようなものなのか? 既存のメディアは本当にこのまま死に至るのか? 若手評論家2人が、同書に鋭く応答する!

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宇野常寛氏。

宇野(以下、) 僕がやっている「PLANETS」という雑誌は、初期「サイゾー」の影響をかなり受けているんですよ。99年創刊当時の「サイゾー」は、総合誌的なものがどんどん通用しなくなっていく中で、「この方向でやれば、辛うじて生き残れる」というところをすごくうまく突いていた。雑誌のメタ度を上げることと、男性誌に偽装することで、ギリギリ総合誌的な知性を保ってたんですね。でも、そのやり方は2000年代後半の今ではもう通用しないだろう、と自分でメディアを始めるときに考えたんです。「PLANETS」は言ってみれば、これから業界人になりたい学生さんと、ネタに困っている現役編集者やプロデューサーに読ませるつもりで作っている。部数は少なくても、それを通じて、間接的にベタなメディアをジャックしていく、というのが基本的な戦略です。総合誌的な知性というのは、おそらくそういう形でしか残れないと思うから。今回、『新世紀メディア論』を読んで、やっぱりこばへんの影響は大きいとあらためて思ったんだけど、チキさんはどう?

荻上(以下、) 『新世紀メディア論』で重要なメッセージは、「チャンネルビジネスからコンテンツビジネスへ」ということになるかな。僕は「αシノドス」というメールマガジンの監修をやっていて、この5月には「シノドス」で『日本を変える「知」』(光文社+シノドスリーディング)という書籍を出したんだけど、これを作るに当たっても、こばへんがずっと掲げてきたメソッドを自分なりに投入したつもり。「ウェブはウェブだけ、紙は紙だけ」ではなく、テレビも雑誌もネットも"パブリッシュ"と大きくくくったうえで、コンテンツを効果的につなげていこう、という発想ですね。こばへんのそうしたスタンスは、ずっとリスペクトしています。

 さっき「総合誌的な知性が成立できなくなっている」と言ったけれど、「代わりにできることがいっぱいあるんだから、それをやっていけばいい」って、ほとんどそれだけをこの本で小林さんは延々と書いているんだよね。僕が「PLANETS」をやっているのも、今の自分のリソースでは、メタメディアとして総合カルチャー誌のミニコミを作るのがいいだろうというのが理由だし。

 今、雑誌がどんどんつぶれていく理由として、報道への不審とか論壇の崩壊とかいろいろ言われているけれど、やっぱり「不況が長引いているから」という身もふたもない話が大きいですよね。特に評論や文芸の多くは、それ自体でマネタイズできなくてもそれなりに回っていけるという環境がなければ成立しにくくて、不況時ということで真っ先に切られてる。そこにたまたまネットという技術が現れたから、飛びついて言論活動をやろうという人たちが出てきた。だけどそれも、「積極的な選択」を宣言しつつも、実際は「消極的な選択」な部分がある。「これからはウェブの時代だ」とかって話ではなくて、こういった経済状況下で生き残るため、そうした技術をオルタナティブとして声高に掲げなければならなかった。

 要するに、物語化が必要だったわけだよね。ホリエモンみたいな団塊ジュニア世代のネオリベ自己啓発系が好む「ネットがマスメディアを打ち倒す」っていう図式に代表されるような、デジタル革命幻想が。アジテーションとして意図的に物語化を行うならまだしも、彼らはそれを、けっこう本気で信じてしまっている。比喩的に言えば、彼らはロックを信じてた最後の世代(笑)。敵か味方か、の二分法なんだよね。

 安易な「マスゴミ批判」やら「デジタルネイティブ礼賛」やらね。

 そういう革命言説を安易に信じた人間は、いま経済的にもお寒くなっているわけでしょう。デジタル革命的な発想が好きなのはかまわないけど、実際にその領域で実績を残した人間は、革命言説に乗らず、もうちょっと冷静にウェブを受容した人たちだということは銘記しておきたいですね。

ロスジェネ+団塊左翼復刊「朝ジャー」が売れたワケ

 雑誌カルチャーについてさらに言及すると、かつては名物編集者といわれるような人が存在しましたよね。で、2000年代のそれは誰かっていうと、「新潮45」(新潮社)の"オバはん編集長"中瀬ゆかりは別格として、「ファウスト」(講談社)の太田克史、「小悪魔ageha」(インフォレスト)の中條寿子、「LEON」(主婦と生活社)の岸田一郎だと思う。この人たちは、最初から「総合誌的知性」を放棄して基本的に「大きなマイノリティをオルグする」ということをやったわけ。僕も出た「朝日ジャーナル」(朝日新聞出版)が、5万部も売れてるらしいけど(笑)、これが言論・思想の分野になると、団塊世代のぬるい左翼論壇がその「大きなマイノリティ」になるってことだけだと思うんですよ。別に「総合誌」的な批評の場が復活したわけじゃない。

 でもまぁ、わりとおもしろく読めたよ。

 ありがとう(笑)。でも、あの雑誌は完璧にロスジェネシフトなわけで、「ゼロ年代の批評」の実態は、加藤典洋や内田樹みたいな団塊左翼のおっさんとロスジェネ論壇が対立して「やれやれ、最近の若い者は」、みたいな構図でしょ。それでその横に、宮台真司さんや東浩紀さんのような若者向け評論の人がいて、それに影響を受けた僕のような若いやつらも出てきた、くらいに思われている。僕らは次の10年でこれをひっくり返さないといけない。

 それと、もう一つ考えておきたいのが、テレビリアリティの問題。「テレビが死んだ」ってよく聞くけど、広告媒体としてガタガタだというのはその通り。でも正確には、死んだというよりも、受け取り方が変わっただけだと思う。求心力が低下した反面、回路が増えたと解釈するべきだよね。

 モニターが増えただけですね。ただ、多くの人たちが言うほどには、影響力は落ちていないでしょう。むしろ「終わった、終わった」と根拠薄のままに見くびることで、現実にはそれなりに機能してしまっているメディアを放置してしまったり、まだまだ脆弱な対抗メディアを過大評価しすぎるほうがまずいと思うけど。

 デマ研究家のチキさんらしい視点ですね(笑)。

 ブログも新聞もテレビもすべてフラットに扱われることになったとき、確かに既存のメディア企業はビジネスプランの見直しを求められる。そして今は、上手に対応できてないから嘲笑されてもいる。でも逆に、彼らが適切なノウハウを習得すれば、罵倒にタダノリしてるだけの草の根ブロガーなんか吹き飛ぶでしょ。その時にはメディア企業として「強い」ほうが勝つわけだから。既存のメディアをバカにするだけで、それを最適化する可能性を放棄してしまうのも、違うしね。

 『新世紀メディア論』がいいのは、「誰もが発信者になるから、メディアは素人のものになったんだ」みたいな言説に冷静に対応しているところだよね。今、インディーズのイベントを企画すると大体、コミックマーケットになるか、コミティアになるか、デザインフェスタになるかの三択。コミケはそれ自体が産業として成立する一大祭典で、コミティアは産業としては小さいけれど、メタメディアとして機能する。要するに、出版社の人間が青田買いにやってくることで業界に影響を与えることもできる。一方、デザフェスは単なる社会福祉で、表現難民のガス抜き装置。たとえば「文学フリマ」はせめてコミティアを目指すべきだったのに、デザフェスになろうとしてる。当初の文フリの構想は、芥川賞にノミネートされるかされないかぐらいの、数千人規模の読者がいる人たちにポコポコ書かせるものだったはずなのに、ただの自分探し系イベントになってしまっている。

 なんでこの話をしたかというと、僕らが言いたいのは「インディーズ頑張ろうよ」とか「小さなメディアをコツコツ作ろうよ」みたいなことじゃなくて、もっとちゃんと業界に影響を与えて、お金も回していくしコンテンツの成果も上げていく、具体的な成果が期待できるものとして「小さなメディア」のメンテナンスが必要だということなんですよね。強調しておかないと、この話は"デザフェス野郎の自己啓発"として聞かれる可能性がある。

 メディアというのは、それ自体がある種のフェティッシュを招くものですからね。手段を目的化しちゃう。誰が何をするためにそのメディアを使っていくのか、課題設定をした上でメディア運営をしないといけない。それがないとただ単に「メディア楽しいねー」で終了。

必要なのは"編集知"ハブメディアで分野を横断

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荻上チキ氏。

 今後の自分の活動について言うと、書き手としてだけで食べていく意欲は全然わかないなぁ。

 それは僕もそうだね。

 言説空間をプロデュースすることが目的なら、自分が書く以外にも方法はたくさんあるからね。たとえば今の僕は、経済学についてはほとんど素人だから、自分より経済学に詳しくて信頼できる人に書いてもらう。他領域でもそう。必要ある時だけ書く。おそらく今は、異なる論者や領域を並べて、対話をさせ、読者に判断させるためのハブメディアの再構築のほうが重要なんだ。今までその機能を果たしていた雑誌が成立しないのであれば、雑誌を作り直すという選択肢もあるし、それ以外の選択肢もあるはず。

 そのチキさんにとっての経済学が、僕にとっては5月31日に刊行した「PLANETS」vo l・6で組んだ「お笑い特集」です。だから今回は、「日刊サイゾー」でもおなじみのラリー遠田さんを僕なりに「生かす」組み方を考えたんです。彼は「松本人志以降」の業界や表現の変化をまとめようとしていて、それは小林信彦から80年代の漫才ブームまでの「お笑い批評」、あるいは宮沢章夫さんとかシティーボーイズ系のサブカル語りとはどの程度接続できるのかは未知数だけど、まずはこの肥大する今の「お笑い」空間を整理したいという気概を買っているわけですね。遠田さんは、いい書き手をネットから拾ってくることもできる人ですしね。このネットが当たり前になった時代では、それができるかどうかで差がついてくるから。バカな編集者は飲み会に混じっていたワナビーをすぐに使っちゃうけれど、そういうのはほぼ使い物にならない。

「PLANETS」に関しては、いま、いくつかの版元と連携して増刊号や総集編を出すことを考えています。放送やイベント系の企画も進めてますよ。

 「PLANETS」ブランドを育てていくということですね。僕も今は、「シノドス」のブランディングとマネタイズ化を進めてる。現時点ではセミナーとメルマガと書籍の3本軸になっていて、それらの黒字化はできてきたので、次は携帯向けサイト、フリーペーパー、ニュースサイトの3つを考えてる。役割に応じた複数のメディアを使い分けつつ、効果的な循環を作り出したい。セミナーの模様は動画で撮影しているんだけど、それもコンテンツとしていずれ何かに使えないか検討してる。まさにワンソース・マルチユースの精神(笑)。

 で、そのニュースサイトの編集長を僕がやるんだけど(笑)。「いま、これがおもしろい」というものを並べる一種のセレクトショップであり、かつサブカルチャーの全体性も仮構できるような、そういうサイトを作ることでいろいろと底上げを図ろうと考えています。

 エンタメ系という、ある種の最大マイノリティへのコンシェルジュサービスだよね。

 かつての総合誌とも違う、ウェブ時代に合わせたちょっと変わった形のニュースサイトになると思うので、「サイゾー」読者も、楽しみにしていてください。

宇野常寛(うの・つねひろ)
1978年生まれ。編集者、評論家。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)がある。本誌今月号より、新連載「現代用語の『応用』知識」がスタート。


荻上チキ(おぎうえ・ちき)
1981年生まれ。編集者、評論家。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)『12歳からのインターネット』(ミシマ社)など。現在、「SPA!」(扶桑社)にて「荻上チキのトラバルメーカー」を隔週連載中。



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