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宮沢りえの母“りえママ”の死とミリオン突破「ヌード写真集発売」の真相

2014年10月14日 15:08

――数々の芸能スクープをモノにしてきた芸能評論家・二田一比古が、芸能ゴシップの"今昔物語"を語り尽くす!

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Santa Fe 宮沢りえ(朝日出版社)

「りえママ」こと宮沢光子さんが亡くなった。まだ六十五歳の若さだった。

「宮沢りえいるところにりえママあり」と言われた芸能界の名物ステージママ。しかし最近はほとんど話題になることもなかった。体調を崩し、療養していたようだが、死因が「肝臓腫瘍」と聞いて思い出すのは、若いころの豪快な飲みっぷり。

 六本木にママ行きつけのバーがあり、よくそこで飲んでいた。自由に出入りできるバーなら、マスコミ関係者も自由に入ることができる。あくまでもバーでたまたま顔を合わせた客同士だが、相手はりえのママでありマネージャー。マスコミは規約がありながらもなにかを探り出そうとする。著者もよく行ったが、行った以上は、なにか情報を得たいのがマスコミ人の性。

 対するりえママも百選練磨の人。そう簡単においしい情報は出さない。それでも世間話をしているときは、姉御肌で楽しいお酒の飲み方をする人だった。お酒は強かった。当時、お酒の強い女性はそうそう見かけなかった。ましてや、りえママは一人でバーのカウンターに座り、ロックを飲む。その姿は誰もが一目を置くほどだった。その好きなお酒が命を縮めたのかもしれない。それでも、りえママにとってはバーが貴重な時間だったと業界関係者が懐古する。

「業界の人が集まるバーでしたから、りえママは飲みながら交流を図り仕事に結び付けていたと思う。18歳で出した写真集が宮沢りえの価値を上げましたが、プロデュースしたのはママ。“りえはハーフだから、私のように太る体質。ヌードは十代のうちに撮らないとダメ”と自らプロデュースし、まだCMで人気が出始めた子のヌードを篠山紀信に撮らせた。当時の篠山さんは、誰でも撮らなくて、女優も“篠山さんだったら撮ってほしい”と言うほど、ステータス的なカメラマンでした。篠山さんに撮らせたのもバー外交と言われたほどでした。売れるようになってからはテレビ界からCM界の人までバーでりえ外交をしていたと言われたほどでした」

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